エスノメソドロジーの国外における広がり(森 一平)

 エスノメソドロジー(・会話分析)は、まずはアメリカ西海岸――とくにUCLAを中心とするカリフォルニア大学のいくつかのキャンパスを拠点として発祥し、発展してきました。

 エスノメソドロジーの産みの親であり名づけ親でもあるハロルド・ガーフィンケルは、1954年にUCLAへと赴任してきました。出生の地であるニュージャージー州ニューアークの大学で会計学を学んでいる頃から抱いてきた独自の社会学的アイデアを、いくつかの大学を渡り歩きタルコット・パーソンズやアルフレッド・シュッツといった著名な社会学者たちと交流するなかで磨いていったガーフィンケルは、1953年に参加することになった陪審員調査のなかでそのみずからの発想を「エスノメソドロジー」という名のもとでまとめ上げるに至ります。

 コールマンやゴールドソープ、コーザ―などといった社会学者からは理解されず、何かと評判の悪かったガーフィンケルですが、UCLAにやってきてからはラディカルな志向をもった学生を中心に熱心な支持者を獲得していきました(そのこと自体がカルトであるとか学生を堕落させているといった批判を呼びこむ事にもつながったわけですが)。ガーフィンケルが自身の新奇なアイデアを徐々に形にしてゆき、ついには1967年に主著となる『エスノメソドロジー研究』を完成させるに至る背景には、そうした支持者たちとの交流があったのです。

 最初期からガーフィンケルと交流のあった第1世代のエスノメソドロジストにはエゴン・ビットナーやエドワード・ローズらもいましたが、なかでも大きな影響力をもったのはアーロン・V・シクレルでしょう。当時シクレルは別の教員の指導生でしたが、社会学における方法論(とくに社会的現実の「測定」の問題)への関心からガーフィンケルと交流するようになりました。

 1957年にコーネル大学での博士研究を終え、UCLAに戻りガーフィンケルとともにビットナーら第1世代のエスノメソドロジストを巻き込んだセミナーを組織したあとでシクレルは、1960年にリバーサイド校、1965年にバークレー校、1967年にサンタバーバラ校、1972年にサンディエゴ校と、カリフォルニア大学の複数のキャンパスを転々としていくこととなります。

 バークレー時代以降、生成文法や認知心理学への関心を強めていき、エスノメソドロジーから離れ「認知社会学」の立場を自称していくようになっていったシクレルですが、他方で後継エスノメソドロジストの育成にも多大な貢献を果たしました。バークレー時代にはサックス、シェグロフ、ジェファーソン、モアマン、スパイアー、サドナウ、ターナーといった著名なEMCA研究者たちの指導にあたりましたし、サンタバーバラ時代には60本もの博士論文を送り出しました。さらにサンディエゴ時代には、「特徴的な社会学部」の新設を任されていたジョー・ガスフィールドが積極的にエスノメソドロジストを雇用したことも相まって、ヒュー・ミーハンらとともに同校をエスノメソドロジー研究の1つの重要な拠点にまで鍛え上げていきました。

 こうしてアメリカ西海岸で産声を上げ、影響力をもちはじめたエスノメソドロジーはその後、まずは東海岸へと普及していきました。その鍵となったのはマサチューセッツ州のボストン大学であり、そこへ1968年に着任したジョージ・サーサスでした。サーサスは初期には小集団研究をしていましたが、ガーフィンケルの論文を読んで以降、EMCAに関心を寄せはじめ、ボストン大学に着任するとその地でボストングループと呼ばれるEMCA研究者のネットワークを構築しました。サーサスの他には例えば、後述するシャロックらの手ほどきを受けるなかでウィトゲンシュタイン派エスノメソドロジーの立場を磨き上げていき、その立場から「心」をめぐる実践について研究していったジェフ・クルターもまた、1974年にボストン大学へ着任し、同グループへと参加することになりました。

 アメリカ内部で西海岸から東海岸へと広がりを見せるのと同時期に、エスノメソドロジーは国外へも普及・展開していきました。いち早くそれが生じたのはイギリスのマンチェスター大学でした。そこで鍵となった人物の1人はウェス・シャロックです。1964年にシャロックがマンチェスター大学に赴任してきた当時の同僚にマックス・グラックマンという研究者がいましたが、彼は友人であったアーヴィン・ゴフマンを1966年から2年間研究員として同大学に招聘しました。過去にアンソニー・ギデンズからゴフマンの仕事について紹介されていたシャロックはこのときに行われた彼の講義に参加し、そこでガーフィンケルとサックスの仕事が興味深く語られるのを聞くとEMCAに関心を向けるようになりました。そしてシャロックは、ともに関心を共有するジョン・リーとともに、ガーフィンケルやサックスをマンチェスターに招いたり、近隣の大学の研究者と研究会を組織したりと、イギリスにおけるEMCAの普及・発展を先導していきました。なお、マンチェスター大学には1976-79年の3年間、後に著名な会話分析家となるゲール・ジェファーソンも滞在したことがありましたが、彼女との交流のなかで会話分析を重点的に学んだジョン・ヘリテージは、エスノメソドロジーと会話分析の双方を視野に入れまた両者を架橋した数少ない入門書である『ガーフィンケルとエスノメソドロジー』を出版し、この本は世界中で広く読まれていくこととなりました(Heritage 1984)。

 その後EMCAはイギリスのみならず様々な国へと普及していきますが、それを決定づけたのが国際エスノメソドロジー・会話分析学会(IIEMCA)の発足でした。上述したボストングループにおける試みの1つとしてサーサスたちは1975年よりボストン大学でEMCAの夏期講座を開催しましたが、ガーフィンケルとサックスを招いて開かれた記念すべきその初回にIIEMCAの立ち上げが決まり、そこから毎年夏期講座が開かれるたびに準備が進められ、1989年,ついに正式に発足することとなります。これ以降、日本を含め様々な国で研究大会が開催されていくことになりました。

 現在ではアメリカ以外のいくつかの国でも、学会規模の国内組織が存在しています。その1つが日本で1993年に発足したこのエスノメソドロジー・会話分析研究会(JIEMCA)であり、その他には例えばオーストラリアでも2001年に同様の組織が発足しています(AIEMCA)。 (森 一平)

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