エスノメソドロジーとは(秋谷 直矩)

 エスノメソドロジーは、アメリカの社会学者ハロルド・ガーフィンケル(1917-2011)によって提唱されました。彼の主著である『エスノメソドロジー研究』(Garfinkel 1967)が刊行されてから現在に到るまで、エスノメソドロジーを標榜する取り組みが数多く積み重ねられてきました。

 さて、エスノメソドロジーとは何でしょうか。『エスノメソドロジー研究』の冒頭では、以下のような説明が試みられています(非常に難解ですが、後で解説するので我慢して読んでください)。

この研究は、実際に生じる活動やその周りの環境、そして実際になされている社会学的推論を経験的な研究の主題として扱い、これまでたいていは異常な出来事に向けられてきた研究関心を日常生活のもっともありふれた諸活動に向けることによって、実際に生じる活動やその周りの環境、そして実際になされている社会学的推論について、それ自体の権利において生じた現象として探求する。これらの中心的な勧告は、組織化された日常的な出来事からなる場面を人びとが産出しうまく取り扱う活動はそれらの場面を『説明可能(account-able)』なものにする人びとの手続きと同じであるということである。説明するという実践や説明の『相互反映的(reflexive)』で『具体的な(incarnate)』性質が、この勧告の要点を成している
(Garfinkel 1967, 1)

文脈依存的表現(indexical expression)などの実践的行為の合理的な性質を、日常生活において組織された巧みな実践の偶発的で継続的な達成として探求する研究を指し示すのに、『エスノメソドロジー』という言葉を用いる
(Garfinkel 1967, 11)

 これらの説明は、ガーフィンケルの取り組んだ以下2つの社会学的問題と密接に結びついています。それは、「社会秩序はいかにして可能か」ということと、「この社会で生活を営む人びとがやっていることについて、研究者はどのように理解できるのか」という問いです。本節では、この2つの社会学的問題と、上述のガーフィンケル自身によるエスノメソドロジーの説明のかかわりを解きほぐすことによって、エスノメソドロジーとは何かという問いに対してひとつの見通しを与えたいと思います。

 この2つの問いは、社会学という名のもとで行われている研究の多くに共通する根本問題です。社会学はその名のとおり、社会を対象とし、それがどのように成り立っているのか(=社会秩序の成立)を探求する学問です。社会という概念については、たとえば、「人間存在の根源的な社会性のもたらす現実的な行為連関の成立が、一切の社会概念の原点をなしているといってよい」(佐藤 1988, 39)といったように社会学者は説明してきました。ここでの「行為連関の成立」は、「社会秩序」とパラフレーズすることができます。つまり、社会秩序の成り立ちを明らかにするためには、社会学者が人びとの行為・行為連関を理解し、記述することが決定的に重要であると考えられてきました。

 そこでもうひとつの問いがたちあがります。それは、「この社会で生活を営む人びとがやっていることについて、研究者はどのように理解できるのか」という、先に2番目に掲げた問いです。「この社会で生活を営む人びとがやっていること」――すなわち行為についての記述を通して社会秩序の成り立ちを明らかにすることが社会学者の仕事です。そこでは、社会学者による行為の記述が、分析対象とされた人びと自身の行為の理解可能性に即したものになっているかどうかが重要です。これがうまくいけば、「社会秩序はいかにして可能か」という問いに対して適切な記述をもって答えることができそうです。そういうわけで、社会学では、「社会秩序はいかにして可能か」という問いと「この社会で生活を営む人びとがやっていることについて、研究者はどのように理解できるのか」という問いは、セットで考えられてきました。

 では、この2つの連関した問いに、ガーフィンケル(やその他のエスノメソドロジストたち)はどのように取り組んだのでしょうか。ここで先のガーフィンケルの引用を再掲しましょう。「組織化された日常的な出来事からなる場面を人びとが産出しうまく取り扱う活動はそれらの場面を『説明可能(account-able)』なものにする人びとの手続きと同じである」。これは、先の2つの問いに対するガーフィンケルの基本的方針を非常に短くまとめたものです。

 「組織化された日常的な出来事からなる場面を人びとが産出しうまく取り扱う活動」――すなわち、人びとが、自分自身が参与している場面についてどのような場面であるかを理解し、その場に応じた何かを行うこと(発話する、説明する、書く、見る、並ぶ…etc)は、その場面を構成する一部であるという点で、公的かつ観察可能な社会秩序の一部であると言えます。また、このような「どのように理解すべきか」「その場に応じたものとして何をどのように行うのか」といったことは、その場面に参与している人びとが直面し、その都度取り組みどうにかして解決している日常的・実践的課題であるとも言えます。ここにはひとつの視点の転換があります。ガーフィンケル以前の社会学者が研究を行ううえで根本問題としてきた2つの問いは、社会学者以外の市井の人々もまた日常的・実践的に経験し、取り組んでいる課題であることを見出したのです(ガーフィンケルは、こうした点を強調するために、社会生活を営むすべての人びとは「素人の社会学者(lay sociologist)」であると述べています)。

 以上のような人びとの実践の特徴を踏まえたうえで、ガーフィンケルは、「社会秩序はいかにして可能か」と「この社会で生活を営む人びとがやっていることについて、研究者はどのように理解できるのか」という2つの問いについて、「それ自体の権利において生じた現象として探求すること」――すなわち、人びとが実際にやっていることに即した記述的研究により取り組むこと、という研究方針を導きます。

 エスノメソドロジストは、それゆえ、会話することであったり、列に並ぶことであったりといった、日常的な、ありふれた事柄をしばしば分析対象として取り上げます。これは、他の多くの社会学が、薬物乱用や犯罪のような逸脱行動、マイノリティ集団の抗議行動といった、いわゆる社会問題を扱うのと大きく異なります。これは、先の『エスノメソドロジー研究』にも「これまでたいていは異常な出来事に向けられてきた研究関心を日常生活のもっともありふれた諸活動に向けること」という部分に示されています。『エスノメソドロジー研究』が書かれた当時、社会学では、逸脱、アノミー、逆機能…といった概念群を手がかりに、いわゆる「社会問題」を対象とした研究が行われることが主流でした。ここで異常な出来事についてもう少し詳細に考えてみましょう。そもそも何らかの状態・状況を異常な出来事として認識可能なのは、日常的で平凡な社会秩序が基盤としてあるからです。したがって、社会学的探求として異常な出来事に向かうこと自体は重要ですが、他方で、「日常生活のもっともありふれた諸活動」の社会秩序の探求もまた非常に重要であると言えます。ガーフィンケルは、『エスノメソドロジー研究』を著した当時の社会学界において、こうした認識の重要性が共有されていなかったことを踏まえて、「日常生活のもっともありふれた諸活動」に関心を向けた研究の重要性を提起したのです。

 ここで注意したいのは、だからといってエスノメソドロジーが異常な出来事を扱わず、日常的な出来事のみを探求するものではないということです。たとえば震災におけるボランティア活動(西阪・早野・須永・黒嶋・岩田, 2013)、自死遺族の語り(藤原, 2012)等々の事柄も、エスノメソドロジー研究では取り上げられます。すでに述べたように、異常な出来事の認識可能性は日常的で平凡な社会秩序を基盤としています。その点で両者は分かちがたく結びついています。つまり、市井の人びとにとっての「異常な出来事」の認識可能性を問う際、彼ら自身が指向している日常的で平凡な社会秩序の解明とセットで探求されるならば、それはエスノメソドロジー研究として成立します。

 さて、先の引用では、ガーフィンケルは、「説明するという実践や説明の『相互反映的(reflexive)』で『具体的な(incarnate)』性質」が、先に説明したガーフィンケルの基本方針の要点であると述べていました。これについても説明します。

 例として「まだ授業中だよ」という発話について考えてみましょう。この発話をどう理解すべきかは、この発話単体を見てもわかりません。この発話を理解しようとするなら、これがどのような文脈・状況で産出されたのかを参照する必要があります(発話を含む、人びとの振る舞いがなされた文脈・状況に応じて、その振る舞いが特定の意味を持つことをエスノメソドロジーでは「文脈依存性(indexicality)」と言います)。もしこの発話を教師から生徒に対してなされた「注意」として聞くことができるなら、当該場面は授業であるということになります。同時に、この発話をそのように聞くことができるということ自体が、「まだ授業中だよ」という発話が当該場面を授業として成立させる一部となっています。このような振る舞いと場面双方に特定の理解可能性をもたらす相互の結びつきを指して「相互反映的」であると言います。また、こうした記述は、人びとが実際にやっていることという点で、非常に「具体的」です。

 エスノメソドロジー研究は、ここまで説明してきたような人びとが実際にやっていることが持つ特徴に注目し、記述的に研究を進めることによって、人びと(=エスノ)が社会を理解し、作り上げる方法(=メソドロジー)を探求する取り組みなのです。そこでは、極めてトリヴィアルな日常的なことから、科学者の営みなどの専門的実践まで、実に様々な人びとの実践が研究対象になり得ます。その際、研究のやり方は、研究対象となった人びとの実践のあり方に即したものになるわけです。ですから、エスノメソドロジーの論文を読んだり、研究発表を聞いたとき、ヴァリエーションの多様さに戸惑うこともあるかもしれません。でもそれは、エスノメソドロジストが「人びとが実際にやっていることに即した記述」を心がけた結果なのです。(秋谷 直矩)

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