第一部 自由報告
坂尾結衣氏(京都大学)
「言語の正確性に対処する他者訂正:英会話練習における『受け取りトークン+トラブル源の置き換え』に着目して」
この度は、発表の機会をいただき誠にありがとうございました。
本発表では、英会話練習における、学習者の発話に対する「“Hm-hm?”や“Yeah”といった受け取りトークン(acknowledgment token)の後に、学習者が用いた表現を正しい表現に置き換える」という現象について検討しました。置き換えに対する学習者の反応には、(1) 訂正された表現を繰り返すことで訂正を受け入れる、(2) 最小限の応答に留め会話を進める場合という2つが観察されたことから、事例を2種類に分けて分析を行いました。分析の結果、受け取りトークンにより理解の問題が生じていないことを示してから置き換えを行うことで、(理解問題ではなく)「言語の正確性に対する他者訂正」として聞こえうる組み立てを取っていることが明らかになりました。また、置き換えに対する学習者の反応について、(2) 最小限の応答に留め会話を進める場合は、学習者の発話と置き換えの形式が類似していないという特徴を見出しました。さらに、全ての事例で置き換えが隣接対の直後の第三の位置で産出されていることから、置き換えがSCTとして扱われていることを指摘しました。
質疑応答・コメントでは、多くの貴重なご意見をいただきました。まず、学習者のトラブル源となる発話が教師の発話を引き出している点から、トラブル源となる発話自体をより詳細に分析する必要性をご指摘いただきました。今回、該当の発話に含まれるフィラーや間から「進行性の滞り」と記述しましたが、L1話者同士の会話でも進行性の滞りに対して発話の置き換えが起こることは頻繁にあります。発話やアイデンティティ、相互行為を行う空間といったどのような要素が「訂正」という教育的活動を引き出したのか、また置き換えが「訂正」として理解可能となるのかを再検討します。また、置き換えに対して学習者が最小限の応答に留め会話を進める場合について、置き換えが教師にとって訂正として産出されているのかというご質問をいただきました。この点については、置き換えを行う際に教師が「ホワイトボードのペンを持ち、教示の準備をしている」という身体行動を伴っていたという点から根拠づけましたが、今後さらに検討が必要です。上記以外にも様々な観点からの質疑・コメントをいただきました。
最後になりましたが、質疑・コメントをくださった皆様、研究会世話人の皆様、発表を聞いていただいた皆様に、改めて感謝申し上げます。
平安山八広氏(明治学院大学)
「『参与者がジェンダー・セクシュアリティを問題にするやり方』の会話分析」
この度は貴重な発表の機会をいただき、ありがとうございました。
報告では、会話の参与者にとって「ジェンダー・セクシュアリティ」が問題になっている場面を分析しました。KitzingerやLandによれば通常、会話の参与者が同性愛者であることは有標(marked)な仕方で示される一方、参与者が異性愛者であることは無標(unmarked)な仕方で扱われることが指摘されています(Land & Kitzinger, 2005; Kitzinger, 2005)。しかし報告者の行った調査の中で、上記とは違った形で「ジェンダー・セクシュアリティ」が問題にされている2つの事例が確認されたことが本報告の出発点でした。
分析の結果、「会話の参与者が異性愛者であること」、すなわち異性愛中心主義が関連していることが分かりました。参与者にとって異性愛中心主義は、「道徳的に望ましくないスタンスを無注釈で導入すること」という問題を避ける/挑戦する資源として、以下の2つの方法で用いられていました。①(話し手自ら)「どの性カテゴリーのもとで話すか」という分類をすることで問題を回避する。② (聞き手の方から)問いの焦点をすべての性カテゴリーに一般化することで問題を指摘する。分析した事例ではこれらの方法が用いられることで、異性愛中心主義がそれまでの会話の前提として暗黙裡に存在していたことを示し、その代替的な選択肢として「多様なジェンダー・セクシュアリティ」の存在可能性が示唆されることが分かりました。
質疑応答では、会話のコンテクストに注目する重要性や、異性愛中心主義という概念のもとで行為を記述する妥当性についてのご指摘をいただきました。報告テーマにあります「ジェンダー」という言葉自体、現在の意味で使われるようになったのは第二波フェミニズム以降のことです。今や人々にとってある意味で身近になった「ジェンダー」や「セクシュアリティ」という言葉や、また「異性愛中心主義」という言葉がどの様な含意を持って、会話の中で使われているのかにも注意を払う必要をご教示いただきました。
ご指摘いただいた点に十分お答えできるよう、更に研究を進めて参りたいと思います。
参考文献
Kitzinger, C. 2005, “‘Speaking as a Heterosexual’: (How) Does exuality Matter for Talk-in-Interaction?,” Research on Language and Social Interaction, vol. 38, no. 3, pp.221-265.
Land, V. & Kitzinger, C. 2005, “Speaking as a lesbian: correcting the heterosexist presumption”, Research on Language and Social Interaction, vol. 38, no. 4, pp. 371–416.
川田優花氏(日本女子大学)
「
この度は、貴重な発表の機会をいただき、誠にありがとうございました。
本発表では、日常会話における「まあでも」の使用を分析しました。プログラムには、「まあでも」と「でもまあ」、「まあ」、「でも」との比較を通して、「まあでも」の使用を検討すると記しておりましたが、時間の都合上、当日は「まあでも」と「でもまあ」の使用に焦点を当て、この2つが同時に使用されているデータの分析を通して「まあでも」と「でもまあ」の使用比較を行いました。
発表後には、今後の研究に繋がる貴重なご意見をいただきました。まず、「まあでも」が志向する「問題」とはどのような問題なのかをもっと具体的に見ていく必要があるというご指摘をいただきました。また、「まあでも」は「まあ」と「でも」という異なる要素を組み合わせて使用されている発話冒頭要素ですが、何に対して「まあ」なのか、また、何に対して「でも」なのか、という「まあ」と「でも」がそれぞれ対処する対象をより明らかにすると、「まあでも」の使用がより鮮明に見えてくるのではないか、というご意見をいただきました。さらに、発表では、「まあでも」と「でもまあ」が同時に使用されているデータを2つ分析し、「まあでも」と「でもまあ」がそれぞれ持つ機能とその使用について検討しましたが、質問の中で、この2つのデータ間において参与者たちが行なっていることは異なるのではないか、というご意見をいただきました。これらのご意見を受けて、「まあでも」が対処するものを単なる問題として漠然と捉えるのではなく、個々の事例により着目して見ることで新たに見えてくるものがあるのではないか、という今後の分析の余地を見出すきっかけになりました。
また、「まあでも」と「でもまあ」が1人の発話者によって同時に使用されている場面においては、その語順を入れ替えることに意味があるのではないか、というご意見もいただきました。このような視点はこれまでの自身の分析にとって新たな捉え方であり、今後の分析で検討していきたいと考えております。
最後に、今回発表の機会を設けてくださった大会世話人の皆様、また、ご意見・ご質問をくださった皆様に改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。
千田真緒氏(千葉大学)・市野順子氏(
「沈黙におけるスマホを用いた相互行為の調整」
このたびは,貴重な発表の機会をいただき,ありがとうございました.担当世話人のみなさま,当日コメントいただいた先生方,また日頃から研究会などでご意見をいただいているみなさまに,この場をお借りしてお礼申し上げます.
本報告では,対面の会話で参与者がスマートフォン(スマホ)を使用する場面において,どのように活動を調整しているのかを検討しました.これまでの研究では,活動の終了や,終了後に発生した沈黙の調整について,主に飲食を取り上げて分析が為されていました(Laurier, 2008, Vatanen, 2018など).本研究では,沈黙となっている際のスマホ使用に着目し,スマホと飲食との違いに触れながら,スマホがその場の活動の終了を遅延させたり,次の共同的な活動の準備をしたりする道具として扱われていることを明らかにしました.
質疑応答では,主に2つのコメントをいただきました.1つ目は,関与の扱い方についてです.報告では,Goffman (1963)の主要関与と副次的関与,また,Mondada (2014)のmainness/sidenessを用いていました.特にGoffman (1963)の関与について,主要と副次的の2軸だけではなく,支配的関与と従属的関与の軸も取り上げると,複合的なスマホを用いた会話活動を詳細に捉えられるのではないか,というものでした.スマホ使用という行為について,どの程度支配的/従属的の観点に位置付けられるのか,議論の余地があると思います.2つ目は,共同活動という言葉の定義についてです.報告では,2人の参与者が,その場から立ち去る場面を取り上げました.議論の焦点は,そのような場面において,2人が立ち去るという行為は共同活動であるのか,また,そもそも共同活動がどのような活動として捉えられているのかという点でした.関連して,活動と行為,そして関与という3つの言葉の使い方が混同しているというご指摘もいただきました.中でも,報告のなかで使用していた「スマホいじり」という言葉は,あくまで個々の行為であり,それが特別に活動となるのは,参与者がある同じ目的・目標の達成のためにスマホを使用している場合というものでした.基本的な概念を再度捉えなおし,そこから共同活動について再考することが必要だと感じました.
質疑応答の時間にとどまらず,休憩時間や大会後にもコメントをくださった方々に改めて感謝いたします.
劉礫岩氏(京都文教大学)
「
本発表は、先行質問の受け手となる話者が反応の冒頭付近で「それがね/さ」という表現を配置するプラクティスについて考察したものである。質問の受け手が「それがね/さ」に続けて、①先行質問の前提を訂正する事例と、②質問が求めた以上の説明を行う事例、の2パターンについて検討した。発表では主に次の点について議論した。それは、質問の受け手は、質問されたことについて話す意欲はあるが、質問の想定に問題があったり、もしくは話そうと思っていることと質問とが何らかの意味でずれがあるために、反応の発話が単なる応答として聞かれたくない、という課題に直面しているという点。その際に、質問の受け手が「それがね/さ」で向けられた事象をピンポイントで焦点化しつつも、質問者と自身の知識のギャップを際立たせることによって、その反応が質問の関心と関連する一方で、質問が求めた以上の情報であることを投射することにより、この課題に対処している、という点である。
発表後に、多くの先生方にご質問とご指摘をいただいたことにより、記述について考え直すヒントを得たことが、大きな収穫であった。いただいたご質問とご指摘は、質問の受け手が「それがね/さ」によって、先行質問の尤もらしさ、もしくは、その質問にたどり着いた語用論的推論の適切性を認めているのではないか、という点で共通していた。発表では、専ら「それがね/さ」による先行質問に対する抵抗としての働きにフォーカスしていたが、この点について、十分に記述に含めることができなかったことに、気付かされた。まさに質問の受け手が「それがね/さ」によって先行質問の取り上げた事象の適切性を認めたからこそ、後続してそれに関して説明することが可能である。貴重なご指摘、質問、をくださいました先生方に、この場をお借りして感謝申し上げます。ありがとうございました。
第二部
テーマセッション 「行為連鎖組織の探究を継ぐ:エマニュエル・A・
川島理恵氏(京都産業大学)
「相互行為のエンジン”連鎖組織”
まずは今回「行為連鎖組織の探究を継ぐ:エマニュエル・A・シェグロフの功績とEMCA研究のこれから」とセッションでの貴重な発表の機会を与えていただいたこと、またこうした会をアレンジ頂いた世話人の方々に心から感謝したい.
UCLA時代を思い出すと思い浮かぶのはHains Hallの角にある日当たりのいい彼の研究室をノックすると聞こえる「Come in!」というマニーの声.いつもおおむねとてもWelcomingなトーンだ.日本の癖が抜けない私がいつも「I am sorry, Manny. Can I talk to you now?」(もちろんアポは取ってますが、一応・・・)と入っていくと「You don’t have to apologize! You are always welcome to come and talk to me!」と言ってくれた笑顔が忘れられない.
今回の発表ではそんなマニーの日常の授業の様子をまずお話しさせていただいた.意外にも「実際に会ったことがなかったけど、とてもフレンドリーな方なのですね!」という声を多く聞かせていただいた.確かに会話の機微を繊細にかつ厳密に分析していくマニーのmeticulousなwriting styleを読んでいると、とっても神経質で厳しい感じがするのかもしれない.確かに分析をbrush upすることに関しては、決して手は抜かなかった.週1回のデータセッションでも、「Everyone is free to talk about your observation. We are all equal in front of data.」と言ってくれてたが、その都度出てくる各自の分析に関しては、それがaccountableなものなのか、dataに沿ったものなのか、執拗に!質問していた.Abstractな概念に分析が流れると、すぐに「Which line number are you talking about?」とデータの中に立ち戻る.そうした積み重ねがphenomenonに辿り着く唯一の道だという雰囲気を肌で感じた.
今回の発表では、日本語の「やっぱり」に着目して医師のtreatment recommendationに関する分析を示し、さまざまなコメントをいただいたことはとても有意義であった.連鎖を超えて何かがreferされることで生み出される力は何か?マニーが「I wonder」の分析の話をしている時に、なぜそれまでの思考の過程をそのタイミングで示す必要があるのか?と何度も問いかけていた.「今・そこ」で積み重ねられる連鎖組織の中に、それまでの議論の流れや思考を織り込むことで生み出される交渉のベクトルがあるように思う.マニーの話していた会話分析が歩むべきカルフォルニアからニューヨークまでの道のり(会話分析は始まったばかりであるという例え話です)に落ちている小さな小石になれるよう、今後も分析を進めていきたい.
早野薫氏(日本女子大学)
「多重行為発話と連鎖組織」
今回のテーマ・セッションは、エマニュエル・シェグロフ氏の功績をふり返りながら行為連鎖組織の今後の展開について考察するという趣旨で企画されたものでした。本研究会の会員の多くの方がシェグロフ氏から何らかの形で薫陶を受け、あるいは影響を受けておられます。その中で登壇させていただくのはおそれ多いことでしたが、氏の研究の貢献と今後の課題をあらためて整理し、それを参加者の皆さまと共有し議論できたことは、私にとっては非常に有意義なことでした。
本報告では、「1つの発話が2つ以上の行為を担う」とき、その2つ以上の行為の間に見られる関係性と、受け手の応答の仕方を整理、考察しました。この考察は、会話分析者がカテゴリカルに「行為」と呼んでいるものを、個別事例において会話参加者がどのように理解、対処しているのかを改めて考える試みでもあると考えています。
多重行為発話の多様性を紐解くことを目指したにもかかわらず、発表ではシェグロフ氏が用いた「乗り物(vehicle)」(と「積み荷(cargo)」)という比喩を使用したことで、問題提起が中途半端になってしまったことが全体討論で頂戴したコメントをとおして自覚できました。「色々なレベルで色々なことをやっている」発話が産出されたとき、その受け手に何が求められるのか、そのような発話によって開始された発話の連鎖がどのように組織立てられているのか、は、シェグロフ氏によるSequence Organization in Conversationが出版されて20年近くが経った今でも、会話分析者にとって重要な課題であると考えます。今回の議論を契機に、これまで自分が「スタンス」という表現を用いて記述してきた現象についてもあらためて検討したいと感じました。
最後に、大変貴重な機会をくださったEMCA研究会世話人の皆さまと議論にご参加くださった例会参加者の皆さまに心から感謝申し上げます。
西阪仰氏(千葉大学/EMCA振興財団)
「連鎖組織と行為連鎖:
今回,「隣接ペア」概念を「身体的に実現される行為」に拡張できるかについて考えてみました.シェグロフは,身体的行為が隣接ペアの第1ペア成分もしくは第2ペア成分になりうることを否定していませんが,一方,そう言い切るための「経験的枠組み」がないと,明確に述べています.また,2007年の「連鎖組織」テキストにおいても,「終了」論文におけると同様,隣接ペアは,明確に「発言順番」を前提とするものと特徴づけられています.そこで,今回の報告では,身体的な行為の「連鎖」が隣接ペアと同じ組織によるものかを吟味しました.そのために,「インストラクション(教示もしくは指図)」と「そのインストラクションに従う行為」を取り上げました.このインストラクション・ペアは,概念的に明確に「第1」と「第2」が区別されるものの,とくにその第2成分は,多くの場合「身体的に」実現されます.多くの人が述べているように(あるいは想定しているように),インストラクション・ペアは,しばしば隣接ペアのようにふるまうように見えます.が,少なくともいくつかの事例においては,その「連鎖」組織は,発言順番のような連鎖性にもとづくというより,(ある意味逆説的にも)「同時性」にもとづくものであること,このことを今回示しました.
もちろん,隣接ペアの場合も,偶発的に,第2ペア成分が第1ペア成分と「同時に」産出されることがあります.しかし,今回検討した例においては,教示もしくは指図が,偶発的ではなく,むしろ本質的に,それに従う行為に依存しながら構成されています.さらに,この依存関係は,グッドウィンたちが「同時操作」として捉えていたものとも異なります.確かに,隣接ペアの第1ペア成分の産出自体,受け手の様々な反応に依存します.しかし,だからといって,第2成分自体が第1成分と同時に産出され,その同時に産出された第2成分に依存しながら第1成分が完了されるとはかぎりません.あるいは,発言に対する「同時操作」の結果,第2成分があえて(偶然的にではなく)重ねられることも観察されています.しかし,それは,まさに「あえて」そうすることで強い同意を達成することになるでしょう.それに対して,インストラクション・ペアの場合は,第1成分と第2成分のモダリティがそもそも異なります.それゆえ,両者の重なりによって,インストラクションに従うこと以上のなにかがあえて達成されているようには,見えません.また,(当日会場からご質問いただいたように)隣接ペアの第1ペア成分産出の途中で,受け手の状態より第2ペア成分が予測可能となり,「先取的に」第1ペア成分の極性を変える,あるいは行為タイプ自体を変更するといようなこともありうるでしょう.しかし,インストラクション・ペアの場合は,「先取」ではなく,第2成分そのものが同時に産出されること,このことが,第1成分の産出に織り込まれているように見えます.
ここから,「明らかに」隣接ペアとしてふるまうように見える身体的行為の連鎖についても,上の「同時性」が決定的に重要であることを示唆しました.もちろん,今回,観察できたことがどこまで一般化できるかは,これからの課題となります.もちろん,一般化できなければそれでも全然かまわないのですが.