第一部 自由報告
岡田光弘氏(成城大学)、水川喜文氏(北星学園大学)、中村和生氏(青森大学)
「日本におけるEM研究の形成と『クルター・ショック』」
研究会では、以下のような趣旨の報告に貴重な質問やコメントをいただきました。当日、ご来場いただいた会員の皆様に感謝申し上げます。また、残念ながらおいでいただけなかった皆様も、何かの機会に、拙稿に対して、ご感想などいただければ幸いです。
まずは、4月29日にご逝去されたジェフ・クルター先生が1992年、1999年と2008年の来日時のセミナーで、惜しげもなく研究の成果を披瀝され、本邦のEMCAの発展に貢献していただいたことに感謝したいと思います。
さて、本邦において、EMCAは、1970年代の後半、現象学的社会学の一派として紹介されました。80年ごろの山田富秋氏による内在的な紹介から、研究の方針や伝統的な社会学との関係といった基本的な図式については、現在の理解と同水準の議論が見られ、1993年には、江原科研で結集した研究者を中心にEMCA研究会が発足しました。
当時のクルター氏の来日は、それまで現象学的社会学の末裔としてのEM像を一変させました(ショック1)。1998年の西阪仰訳、『心の社会的構成』は、EMの必読書の一つでしたし、氏の著作やセミナー内容は、後の「相互行為分析」や「概念分析」に決定的な影響を与えています(ショック2)。本報告では、氏が本邦のEMCAの展開に与えた大きな影響について「クルター・ショック」と命名して、その意義について述べました。
EMCAの教科書『実践EM入門』では、EMCAが「会話分析(含、相互行為分析)」「成員性カテゴリー分析」 「論理文法分析」「ワークの研究」に分類され、『ワードマップ』でも「会話分析」「ウィトゲンシュタイン派EM」「エスノグラフィー 」という3分類が採用されていたことは、当時の氏の影響力を示しています。しかし、昨今の『EMCAハンドブック』の人名索引にはクルターという名前が見られなくなっています。
本邦のEMCAの主流とも言える「相互行為分析」は、約言すると、「なぜCAをするのか(クルターの哲学)」と「どうCAをするのか(実践的な手法)」のアマルガムとして成立しています。ここで、CAを例に言うなら、氏は、CAという実践の内部にすでに存在していた「論理文法」的な本質を(実践者の言葉すら引用しながら)「解明・提示」し、CAの実践(データ分析)とは、まさに論理文法分析(想起)の、より精緻な形態であると指摘しました。これは、CAを統計的経験主義の呪縛から解放し、その学問的地位(ア・プリオリな探求)を明らかにしたとも言えます。もしこの考え方が成り立つなら、私たちは、今後も、クルター先生の功績を無視してEMCAを行うことはできないでしょう。
福田建氏(東京大学)、千田真緒氏(千葉大学)
「集団的活動に開かれた個の行為の組織化: 読書会でのスマホ使用に着目して」
本発表では、読書会の最中にスマートフォン(スマホ)の使用が開始される相互行為断片に注目し、参与者が理解の達成に志向している状況で、その志向に沿う形でスマホを使用することがいかにして可能になっているのかを分析した。運営・司会を務めてくださった方々の尽力により、非常に良い雰囲気の中で発表をすることができ、質疑応答の時間や発表後に多くのご意見、ご指摘をいただけた。考えを深める機会をいただいたことに、改めて御礼を申し上げたい。
分析ではGoffman(1963)の関与の枠組み、とりわけ主要関与の概念を中心的に用いたが、主要関与が会話からスマホへと移ってゆくという記述に関して、主要関与を遷移的なものとして見るのではなく、会話をしながらスマホを操作する、といったように、複数の主要関与が同時に現れていると考えられないかという鋭いご指摘をいただいた。参与者が一度に遂行する行為が一つに限定されないことを踏まえた上で、スマホ使用が行為の複合体の一部を構成することが、相互行為連鎖上どのように可能になっているのか、という、新たな問いの可能性が見出された。この観点は、読書会という活動において参与者が特定の目的を共有しており、その場の行為への意味付けが日常会話場面に比べて志向されるという点からも重要になるだろう。スマホ使用には、(1)支配的関与と繋がっており問題にならないもの、(2)支配的関与と繋がっていないが問題にならないもの、(3)支配的関与と繋がっておらず問題となるもの、の三種類が想定でき、この区分とスマホ使用が接続する行為の種類との間に関連があることが期待される。
また、発表した事例がいずれも情報探索の場面であったため、情報の有無とスマホ使用との関係に関するご意見も複数いただいた。スマホ使用による情報探索と参与者同士の会話を介した情報探索という、二つの異なる様式を持った情報探索が並行して生起する意義や、協同的な理解の達成に参与者が志向している学習場面と、他の参与者よりも相対的に知識がある状態との調整のあり方など、情報が十分でない状況にどのように対処するか、という観点にも蒙を啓かれた。程度の差こそあれ読書会において遍在的である課題文献を参与者全員で理解することへの志向性と、スマホという電子デバイスを用いて情報探索をすることとの絡み合いを、緻密に、そして丹念に掬い取るような分析を心掛けたい。
細馬宏通氏(早稲田大学)、八木裕子氏(東洋大学)
「訪問介護における利用者とヘルパーの注意共有過程:冷蔵庫内の確認場面を事例として」
認知症高齢者は、しばしば注意機能に問題があり、注意共有の達成に困難を抱えている。一方で、たとえ困難を伴っても、活動を楽しむことが、認知症高齢者の「自立」を促し、QOLを維持するために必要であるとされている。訪問介護の調理支援においても、単なる調理の代行ではなく、生活歴の喚起を促すことで利用者の自立を支援することが求められており、その作業の一つとして「認知症の高齢者の方と一緒に冷蔵庫のなかの整理等を行うこと」(厚生労働省老計10号)が挙げられている。では、実際の場面において、ヘルパーと利用者は、どのようにして冷蔵庫の中身を注意共有するのだろうか。本発表では、認知症高齢者である利用者とヘルパーの訪問介護場面を記録し、ヘルパーと利用者の発話、視線配分、動作の時間構造をELANでマルチモーダル分析することで、どのような手続きを経た場合に注意共有が達成されるかを記述するとともに、注意共有に必要とされる相手の視線に対するモニタリングがいつどのように起こっているかを明らかにした。また、注意共有は単独の一行為として達成されるとは限らず、食材を探索するという文脈のなかで複数の注意共有過程が連鎖して起こること、そして注意の維持の困難な利用者にとってこのような連鎖が注意共有にとって有効であることを論じた。これらの注意共有連鎖では、共同注意の開始時点ではヘルパーが開始者となり利用者が反応者となっているが、連鎖の後半では、利用者は自ら食材を確認したり手に取ることで開始者となり、ヘルパーがそれを傍や後ろから反応者として確認するフォーメーションへと変化する。このような開始者と反応者との交替によって利用者自らが注意の開始者となることは、利用者の「自立」を促す上で役立っていると考えられる。
リュウ ゲイメイ氏(立教大学)
「スマホ注文における視覚的離脱と対象整合—『不可視のメニュー』をめぐる相互行為分析」
本研究は、複数名(少なくとも二人)がスマホを用いてQRコード注文を行う協働活動に着目しました。視覚を相互行為の基盤として強調する先行研究では、視線は常に同一の対象に向けられることが前提とされてきました。しかし、スマホ使用は個人化された活動であり、多重参加の管理や「視覚的離脱」(visual disengagement)を引き起こすことが指摘されています。こうした知見に対し、QRコード注文は必ずしも同一画面の共有によって達成されるのではなく、各自のスマホ画面上に表示された同一メニューを参照することによっても確認されます。本研究は、異なる画面を前提とした視覚的離脱のもとで、参加者がいかに対象を同定(identification)し、注文全体を進めていくかを明らかにしました。結果として、注文の進行はknowingとseeingの交替的な運用によって成り立つことを示しました。グループによるQRコード注文では、参加者が常に同じ視覚対象へ視線を向けているとは限らない状況でも、同定が達成されうることを示しました。
質疑応答・コメントでは、会話構造における連鎖の観点から、こうした行為がどのような影響をもつかをさらに分析できる点が指摘されました。連鎖への影響を検討すれば、seeingとknowingの組織化は異なる可能性があります。本研究の事例は誘いの行為が中心であったため(いずれのターゲットラインも誘い)、参加者が具体的に何の行為を組織しているのかという視点からも、さらに議論を深める余地があります。また、同定そのものがどういう行為なのかを再検討する必要性を再び感じました。
最後に、研究会世話人の皆様、発表を聞いてくださった皆様、休憩時間や大会後にも質疑やコメントをくださった皆様に、改めて感謝申し上げます。
関﨑暁武氏(東京大学)
「メディア上の相互行為における第三者への非難とユーモア」
本報告では、お笑い芸人のラジオ番組をデータとして、その場にいない第三者への非難や悪口を通じてどのように笑い・ユーモアの産出が成し遂げられているのかについて検討しました。とりわけ「ユーモアの不一致説」を手がかりに、どのような逸脱が産出され、それがどのようにユーモアとして理解可能になっているのかという点を中心に分析しました。具体的には、話し手が非難や悪口を語るなかで、ターゲットが行った行動の逸脱性を際立たせたり、あるいは成員カテゴリーや連鎖組織に関する規範からの逸脱を組み込んだりすることで、ユーモアを産出しているのではないかという分析を行いました。
以上の報告について、以下の二点のご質問をいただきました。一つは、非難のターゲットの行動の逸脱性がユーモアに関係しているという分析箇所について、ターゲットの行動というよりも、むしろ非難する側の話し方や過剰な態度のほうが逸脱的であり、そちらがユーモアに寄与しているのではないかというご質問です。もう一つは、他人を非難することそれ自体が非難の対象となるにもかかわらず、それが冗談として理解可能になるための、いわば「メタメッセージ」のようなものがどのように産出・理解されているのかというご質問です。どちらも極めて重要ですが、特に二点目が重要であると感じております。この点について当日は、お笑いのラジオという活動のなかであるがゆえに話し手が「ボケ担当」であることがレリヴァントになり、その話し手が突飛な発話をするならばそれはボケ=冗談として聞かれるのではないかとお答えしましたが、会話データに基づく分析的な回答を提示することはできませんでした。そのため、この点につきましては今後も引き続き検討していきたいと存じます
この他にも、質疑の時間外に個人的にいくつものご質問・ご指摘をいただきました。いずれもきわめて重要なポイントであったと思います。いただいたコメントをぜひ今後の研究に反映させていければと存じます。
最後に、EMCA研究会を開催し貴重な報告の機会を設けてくださった運営の皆様、当日にご意見・ご質問をしてくださった皆様、ゼミや研究会でコメントをしていただいた皆様に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
嶋原耕一氏(東京外国語大学)
「パズル遊びの相互行為的な達成」
発表では、『子ども版日本語日常会話コーパス』モニター版(小磯他2025)のデータを利用し、養育者と子どもが行う「パズル遊び」活動が、いかに相互行為的に達成されているかを分析しました。まず養育者がしていることが、広義のインストラクションに含められるのではないか、という発表者の考えを提示しました。その上で四つの断片を提示し、インストラクションが段階的に行われるという点と、養育者の実演(demonstration)がその時々で調整されるという点に注目しました。段階については、「これなに?」などの質問により、欠けているピースを補って見る能力がモニターされるstep①と、欠けているピースの探索が促されるstep②を提示しました。step②のインストラクションは、発話と身体動作から成る探索の実演によって行われており、その実演が子どもの探索の様子に応じて調整されることを示しました。
質疑応答及び発表後の個人的な会話では、多くの重大なご指摘をいただきました。その一つが、データをインストラクション場面として見ることの妥当性についてです。インストラクション場面ではしばしば、それに従わないことが違反として見なされますが、パズル遊びのインストラクションは「一緒に遊ぶ」ということに埋め込まれており、子どもがそれに従わなかったからといって、何かしらのサンクションがあるとは考えにくいかと思います。少なくとも子ども側は、インストラクションを受けているとは理解していないことを記述すべきという点を、ご指摘いただきました。その上で、インストラクションと遊びという二重のフレームが構成されており、養育者はそのフレームを使いながら参与の仕方を調整している(あるときはインストラクターとして振舞い、あるときは遊び相手として振舞う)という記述もありえるだろう、というコメントをいただきました。また、今回の発表では第三の位置にある評価まで記述できていませんでしたが、インストラクション通りの行為が観察された際に、養育者が肯定的評価を与える場合と、そうでない場合がありました。そのような違いに注目することも、そこで起こっていることを理解するのに重要であるとご指摘いただきました。現時点でまだ考え中ではありますが、そのような評価産出と養育者のフレーム間の移動を分析の手掛かりとすることで、現象により精緻な記述が与えられるのではないかと考えております。他にも貴重なコメントを多数いただきました。運営に携わった先生方や大学院生の方々、コメントをくださった全ての方々に、この場を借りて感謝申し上げます。いただいたご意見を活かしながら、研究を進めてまいりたいと思います。
第二部
テーマセッション「実践の記述は誰のためのものか:実践的・分野横断的な示唆に向けて」
團康晃氏(大阪経済大学)
「『休み時間』 を論じることの学際的な位置づけ方と意味」
今回は研究成果、分析の結果の宛先をめぐる議論ということでお声がけをいただきました。今年4月に博士論文をもとにした単著(『休み時間の過ごし方』)を刊行したこともあり、私の研究キャリアとEMCAに基づく研究成果のアウトプットの在り方について話しました。
私はもともと文化に関心を持って文化社会学やカルチュラルスタディーズに影響を受けながら研究を志していました。紆余曲折を経て修士課程の途中から文化を身体化する場として中学校でのフィールドワークを開始。当初P.ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』にならって教室に「グループ」を見出すことに躍起になっていた私は、最終的に「グループ」を調査者が設定するのではなく休み時間に集まったメンバー間で「共成員性」がいかに達成されているのかという視点でデータを見るようになりました。それがEMCA研究との出会いです。
こうした研究をどのような研究領域に位置づけるのかというとき、そもそも私が学際的な研究を志向した大学院に所属し、メディア論やコミュニケーション論を念頭において論文を書いていたことは今にして思えば幸せなことで、常に他流試合という意識で論文を書いていたように思います。そうした学際的な知見の位置づけ、先行研究の中にいかにEMCA研究を位置づけるかということについてはこのテーマセッションに登壇予定だった秋谷氏の報告内容に詳細に述べられていた点に大いに首肯するところでした。
一方でEMCA的な分析はフィールドでお世話になった学校の先生方や生徒たちには必ずしもわかりやすいものではありませんでした。単著を書くにあたって調査者(「私」)についての記述を増やし、ある種の「調査体験記」の文体でもって博士論文を全面的書き換えました。さらにこれまでの単著論文として書いてきた事例を「休み時間」という社会的場面における相互行為とメディア環境の特質として位置づけることを強調しました。多くの人が見落としてきた「休み時間」に起こっていることの記述として本研究を位置づけることで、フィールドの方々にもその趣旨は(以前よりずっと)伝わったのではないかと思います。書籍として研究を編みなおすことの意味を考えさせられる経験でした。
拙著におさめられている論考の一部は、EMCA研の個人報告でいただいたコメントや、書評セッションでいただいたコメント(6章など)に示唆を受けて加筆した箇所もたくさんあります。あらためて日々EMCA研究会を運営される世話人の方々、そこに集う参加者に御礼申し上げます。
森本郁代氏(関西学院大学)
「裁判員裁判の評議のリアリティを描く試み
―法曹関係者・法学者の協働による会話分析研究」
今回、秋の大会のテーマセッションで、「裁判員裁判の評議というブラックボックスの可視化はどのようにフィールドに還元可能か?」というお題をいただき、20年近く行ってきた裁判員裁判の評議の研究について改めて考える機会となりました。2006年に裁判員制度が開始して20年近く経ち、制度が社会の中に定着しつつある一方で、知識や経験において圧倒的に格差のある裁判官と裁判員が、評議においてどのように事案を理解し、事実認定と量刑の判断を行っているのかはブラックボックスのままです。本報告では、評議参与者の視点から見た評議のリアリティを明らかにすることを目的に、特に、裁判員の意見に対して裁判官が行う確認の求めに焦点を当てて、そこに裁判官のどのような指向が示されているのかを明らかにしたうえで、会話分析の方法論にもとづく分析と得られた知見が、共同研究を行っている刑事法学者や心理学者、裁判官の観点からどのように捉えられるのかを紹介しました。刑事法学と心理学から見た会話分析は、実際の相互行為を対象とし、参与者たちの無意識のふるまいに見られる指向を明らかにできる一方で、分析が断片的で、全体の流れや傾向を俯瞰できないとして批判されています。そして実務に携わる裁判官からは、客観的な視点から意識していなかったふるまいや指向を明らかにでき、自分たちの実感と合う点も多いと評価されつつも、トランスクリプトの記号や事例の記述が細かすぎて理解が難しいとの指摘も受けています。
裁判員裁判の研究は、模擬裁判の実施やデータの理解において、刑事法学や実務家の協力が不可欠ですが、会話分析が評議の運営やファシリテーションの技法に有意義な知見を与えてくれるという期待があるからこそ、協力が得られているのが実情です。報告の最後に、実務家の期待に応えて評議デザインの提案を目指すことと、EMCA研究として評議研究を行うことの両立が私の率直な悩みであることをお話ししました。フロアからは、「模擬」というデータ自体の特性に対する疑念や、実務家の期待に応えようとすることで、エスノメソドロジー的無関心を貫くことが難しくなるなどのご意見をいただきました。どれも私自身がずっと悩んできたことですが、改めてご指摘いただくことで、やはり逃げずに考えなければならないと思いました。そして最後に、そういう悩みを持つことは良いが、EMCAの研究者としてやるべきことをやればよい、というご意見をいただき、大変励まされました。
こうした機会をくださった企画責任者の黒嶋さん、早野さんに改めてお礼を申し上げますとともに、当日さまざまなご指摘、ご批判をくださった皆様に心より感謝申し上げます。
