エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2023年度春の研究例会・短信

第一部 自由報告

岩田夏穂氏(武蔵野大学)「プロセスの語りに見られる『仕切り』としての敬体の使用」

このたびは、貴重な発表のご機会をいただきまして、ありがとうございました。

本報告では、親しい友人同士の雑談で、先行するやり取りの内容に関わる設定の説明や確認等に、終助詞等がつかない形の敬体(~ます、ません、~ました等)1が用いられるデータをご紹介しました。常体と敬体の使い分けについては、会話参与者間の親疎関係だけでなく、連鎖構造にも関わることが指摘されています。本報告でも、敬体がどのような連鎖上の位置で使用され、そしてそれがどのような行為として記述可能なのかを検討しました。

発表では、まず、映画2の導入部分でのやり取りで、話し手が聞き手に自分の話の説得性を主張するために、敬体でなぞなぞのような発話をする場面を紹介しました。続いて、話し手の質問に対して聞き手が応答する常体のやり取りの直後に、話し手が仮定の状況の設定を説明する、その過程で敬体が用いられる断片と、留学生が中国のホラー映画の説明をした後、理解のトラブルが生じた日本人学生が、留学生の話した内容を再度確認する過程で敬体が用いられている断片を提示しました。そして、これらの断片では、敬体の使用が、それまでの常体のやり取りとの連続性をいったん断ち、架空の状況の進行を実況する(断片1)、あるいは、自分が理解しているストーリーを段階に分けて検証する(断片2)等、先行する内容に関連はあるが、異なる行為をさしはさむためのやり方になっているように見えることを指摘しました。

質疑応答では、さまざまなご意見、ご質問をいただきました。敬体の発話の音調といった産出のし方にも注目すべきであること、敬体の使用が、話し手が相手とどの程度の理解を共有しているのかを、区切りながら確かめるのに有効なやり方になっているように見えること、先行のやり取り、敬体の使用、後続のやり取りの関連性を詳細に検討することで、今回提示した複数の断片に共通する一つの枠組みとして記述できる可能性があることをご指摘いただきました。貴重なご指摘、質問、コメントをくださいました方々に、この場をお借りして改めて感謝申し上げます。ありがとうございました。

1)発表では、「言い切りの形」という表現を用いましたが、この表現は、国語教育で終止形を指すため、ここでは使用しないこととしました。

2)発表で引用した映画のタイトルが間違っておりました。正しくは「花束みたいな恋をした」でした。お詫びして訂正いたします。

鯨井健斗氏(東京学芸大学)「教師はいかに『答えはないこと』をデザインするか」

この度は貴重な発表の機会をいただき、ありがとうございました。また、当日は参加者のみなさまより様々なご意見も賜り、大変勉強になりました。重ねて御礼申し上げます。

報告では、小学校社会科の授業場面に着目し、「答えはない」という前提を教師がどのようにデザインしているかを考察しました。授業において教師は「社会を教える」技法として、「答えはないこと」を前提とした発問を行うことがあります。その発問を起点とする行為連鎖に焦点を当て、授業実践から分析しました。

一斉授業に見られる典型的なIRE連鎖においては、教師の発問に対する児童の応答に対し、教師が評価することが期待されます。一方、本報告における事例では「答えはないこと」を前提とした発問をした際、教師が第三の位置で児童の応答に対して評価以外の振る舞いをすることが繰り返し観察されました。具体的には、教師が児童の応答を「部分的繰り返し」をする技法や「部分的繰り返し」をしたうえで教師が「なるほど」と言うことで新情報として受け止める技法などがあり、この技法が「答えはないこと」の前提をデザインすることに寄与していました。

質疑応答では、「答えはない」と言いつつも、教師の頭の中には答えがあるので「答えはない」問いはないのではないかといったご意見や、それに対して「答えはない」問い自体はあるが、その鍵は第三の位置ではなくIRE連鎖のIの位置にあるのではないかといったご意見をいただきました。また、「答えはないこと」と「答えが複数あること」と「答えが一つではないこと」の関係に関してもご質問いただきました。

社会科の授業における問いは社会課題に関するものが存在します。そうした問いは教師の頭の中にある程度の想定された答えがあるとしても、答えが導き出せるようなものではありません。よって、「答えはない」前提はありうるとは考えているのですが、一方でこの問いは教育的な行為であるということも見逃せません。すると、問いに対して「正しい」答えはなくても、「適切な」答えはあるはずです。以上の議論を踏まえ、事例に基づいてさらに検討して参りたいと思います。

最後になりますが、発表に向けてご助言いただいた方々をはじめ、ゼミや研究会で事例を検討いただき、ご指導いただいたすべての方に感謝申し上げます。ありがとうございました。

緒方亜文氏 (東京大学/日本学術振興会)「教授的相互行為の過程で構築されるスクリプト:ASD児によるミシンの操作場面の分析」

本発表では、ミシンを操作する1名の自閉症児と、その支援にあたる1名の教師の相互行為を分析し、その中で、「一定区間に渡って布を縫う」というスクリプトが、どのように構築されるのかを検討することを試みました。
質疑応答の時間はもちろん、その外においても、先生方から、多くのご意見をいただき、大変貴重な勉強の機会となりました。このような機会をいただき、心より感謝を申し上げます。

まず大きな問題点として、「隣接ペア」の概念の使い方が間違っている、というご指摘を頂きました。私は、自閉症児がミシンのペダルを、一定の時間踏み続けること自体を、「隣接ペア」の第二成分としてしまっておりました。しかし、その間にも教師による様々な働きかけが行われていることからも、ターンを取得しているとは言えない、というご指摘は、もっともであると考えました。
原典となる論文に立ち戻り、安直な類型化を避け、丁寧な記述を試みて参りたい、と考えました。

一点目に関連して、また別の先生方からは、進行中の活動について、様々な教示が連続して行われる事例を扱った論文(例えば、ボルダリングの支援場面)を読み、参考にしてはどうか、というご意見を頂きました。それにより、ミシンの操作中に行われる様々な声掛け(例えば「(布を)見てみて」)の連鎖上の位置づけについても、考え直せるのではないか、とのことでした。
ご紹介頂いた論文をはじめ、マルチモーダルな活動をめぐる先行研究を読み、書き方についても、学びを深めて参りたいと思います。

また、スクリプトの「構築」という言葉の使い方についてのご質問もございました。私は、Edwards(1997)に着想を得て、相互行為に依存して様々なスクリプトが適切となる、という立場に依拠しているつもりでした。しかし、ミシンである以上、正しい使い方はある程度定まっており、「学習」と呼んでもよいのではないか、とのご意見がございました。
まだ考えは定まっておりませんが、当事者たち、特に自閉症児の側でミシンがどのような道具として認知されているのか、という視点から、データを見直したいと考えました。

それ以外にも、たくさんのご意見や、叱咤激励のお言葉を頂き、ありがとうございました。その全てに応答することは、紙幅の都合上叶いませんが、今後の研究に活かして参ります。
最後になりますが、この貴重な機会を提供してくださった、世話人の先生方にも感謝を申し上げます。

髙橋亜里沙氏 (千葉大学)「日本の職場における上司のからかいに対して初めて気づいたと表すこと」

この度は、貴重な発表の機会をいただきありがとうございました。大会の企画・運営にご尽力いただいた世話人のみなさま、ご出席いただいたみなさまに、深く御礼を申し上げます。

私の発表では、日本の職場における、上司による指摘のからかいに対して、部下が「今初めて気づいた」という反応をすることについて分析を行いました。また、なぜこのような反応をするのか考察を行いました。

からかいは、真面目な要素として「不平・不満」、「命令」、「指摘」というような様々な行為に、笑い等の非真面目な要素を付加して成り立っています。発表でとりあげたからかいの真面目な要素である行為は、「指摘」です。隣接ペアのように、FPPが決まったSPPを要求するのとは違い、からかいに対する応答は決まったものがあるわけではなく、様々です。しかし大きく分けて主に、からかいに対する応答には、「受け入れ」、「拒否・訂正」があります。そのどちらでもない、上司による指摘のからかいに対して、部下が感動詞「あ」、「え」、「あれ」やからかいの一部を繰り返して応答することに着目しました。抵抗や拒絶を示すものとしてBolden(2009)の先行研究がありますが、本発表では、データから、これらの応答が指摘のからかいに対して抵抗し、指摘されたことへの説明を回避したり、指摘をそらすことを成し遂げていると提示しました。また、これらの応答の理由として、上司の指摘のからかいが的を得ていたりして部下による説明が難しい等の背景があるというのと、「今初めて気づいた」という応答をすることによって、その後の説明の追求が難しくなるということを考えています。

発表では、多くの貴重なコメントをいただきました。まず、私の分析ではSPPに着目するあまり、FPPであるからかいの、どうしてそれがからかいと言えるか、取り上げたデータのからかい全てが指摘のからかいと言えるかという問題点についてのコメントをいただきました。また、SPPについても「あ」、「え」、「あれ」やからかいの一部の繰り返しがすべて「今初めて気づいた」という反応になるのかということと、それが産出される位置によっても違うのではないかという指摘をいただきました。これらは、その他の有益なご指摘と共に、今後の分析の課題としていきたいと思います。改めまして、この度は発表の機会をいただきありがとうございました。

西阪亮氏(関西学院大学)「自慢の相互行為的機能に関する一考察:しつこさに対処する自慢」

この度は、貴重な発表の機会をいただき、誠にありがとうございました。ご出席いただいたみなさまに心より御礼申し上げます。

本報告では、題目の通り、自慢の相互行為的な利用可能性について考察を行いました。自慢は従来避けられるべき行為とされ、自慢を回避する方法について、これまでいくつかの研究によって明らかにされてきました(Pomerantz 1978、Speer 2012など)。一方、そのような回避することが好ましい行為があえて行われるとき、それを単なる社会的な逸脱行為と捉えるべきなのかということに疑問を感じました。そこで本報告では、自慢を行うことが、その時その場の相互行為において自慢者が直面している課題を解決するための適切な手段であったことを主張することを試みました。

上述の研究課題に取り組むため、本報告では二つの事例を用い、やりとりの中で産出されたある質問(「私はすぐに彼氏ができるからいいわみたいな?」、「少なくとも私より勝てる?」)に対する「そう」や「まあね」といった肯定的な応答が自慢に聞こえる事例を取り上げ、分析を行いました。分析の結果、事例はそれぞれ、「(自慢者が)恋人を作るか否か」、「(自慢者に)英語力があるかないか」という話題で複数のターンを取り、かつ、自慢者をからかうようにしつこくやりとりが行われている中で、最終的に自慢者が自慢に聞こえる応答を行うことで、そのしつこいからかいのやりとりを収束に向かわせることを可能にしていることがわかりました。一方、自慢に聞こえる応答には「そう」や「まあね」といった異なるものが見られ、その違いには、自慢に聞こえる応答を行うことによって生じる問題に対処した結果、このような違いが生じるのではないかということを考察しました。

他方、当日の質疑応答では、①しつこいやりとりがなぜ生じているのか、②やりとりの中で、本報告が取り上げた発話以外にも自慢に聞こえる応答があるにもかかわらず、なぜその発話のみを自慢として捉えたのか、という有益な質問をいただきました。これらの質問から、本報告では自慢に焦点を当てることで、やりとり全体の緻密な分析が不十分であったと痛感させられました。①に関しては、参与者たちが従事している話題において、自慢者に向けて行われた質問に対し、自慢者が十分に応えていない状況が、質問の行為者によるしつこい追及の要因となっていることがコメントにより垣間見られました。②に関しては、自慢者によって十分に応えられていない応答を追求するために、質問の行為者がより肯定的に応えやすい形へと質問のデザインを変えていることが示唆され、発話のデザインをより正確に記述する必要があると感じました。今後、これらの指摘を分析に取り入れ、より参与者の視点に立った考察を行っていきたいと考えます。

最後に、コメントをくださった先生方、研究会の運営にご尽力いただきました世話人の皆様、会場に足を運んでいただいた皆様に、改めて感謝申し上げます。

第二部 テーマセッション「授業・教育実践のEMCA研究」

森一平氏(帝京大学)「『子どもたちの主体的な発言を引きだす』技法の展開:対象選択の問題に焦点化して」

まずは,この度のような貴重なご機会を与えてくださった世話人の皆様に深く感謝申し上げます.また『学びをみとる』を本テーマセッション開催のきっかけとして大きく取り上げてくださったことも,編者の1人として大変ありがたかったです.

本セッションにおいて私が,①『学びをみとる』の担当章(順番の細断技法)と②最近の研究(今泉博先生の評価実践)を結ぶかたちで何よりお話(ご相談)したかったのは,EMCA研究と研究者自身の価値との関係性についてでした.言い換えれば,「エスノメソドロジー的無関心」という方針のもとで研究者自身の価値を研究に介在させることはいかにして,あるいはどの程度まで可能なのかという点です.

データの分析に研究者自身の価値を持ち込まないことはEMCA研究のミニマムな前提だと思いますので,その介在が許されるとしたら,(A)研究対象(データ)の選択,(B)分析結果についての考察という2つの局面のいずれか,あるいは両方であろうと,私個人としては考えています.実際,報告で取り上げた私の研究のうち,①は(B),②は(A)(+(B))の局面において自身の価値を介在させた論述を行っています.

ただ,以上の考えに自信があったわけではなく,当日は――私にとってEMCA研がもっとも緊張する舞台であることも相俟って――恐る恐る報告させていただいたわけですが,大きなご批判をいただくことはありませんでしたので(単にご参加のみなさまの関心を引くことができなかったかもしれませんが・・・)EMCA研究者の1人としてこの考えのもと研究を進めてもよいのかなと,背中を押していただいた思いです.

とはいえ,EM的無関心をより(最も?)強く解釈すれば,上記(A)(B)の局面においても研究者自身の価値判断を差し控え,成員自身の価値に立脚すべきであるといえます.そこで報告の最後に触れた最「新」の研究では,研究協力者である教師の方々と価値観をすり合わせたうえで実践(づくり)を行ってもらい,その実践を対象に研究を進めるということをしはじめています.

いずれにせよ私は,授業のEMCA研究を通してわずかでも社会をよりよい方向に動かしていきたいという思いで研究を進めています.こうした立場からの研究に少しでもご関心をお持ちいただけましたら,今後の研究の展開にぜひともお目を留めていただき,ご意見・ご批判を頂戴できれば幸甚の至りです.

粕谷圭佑氏(奈良教育大学)「長期的データを用いた教育実践記述の可能性:幼稚園入園初期の調査を事例に」

本報告は、「長期的データは教育実践の記述にどう活かせるか?」をひとつのトピックとして、私が近年取り組んでいる幼稚園での教育場面の分析事例を紹介させていただきました。近年ではさまざまな言語コーパスの構築も進み、これまで調査のハードルが高かった教育場面のデータへのアクセスも容易になりつつあります。しかしその一方で、長期的な調査観察を行うことで見えてくる実践の組織のされ方も、それぞれの教育活動の組織を特徴づける重要なものであると考えます。そうした関心を詳細な相互行為の分析に落とし込んでいくために、本報告では、近年注目されているLongitudinal CA研究からアイデアを用いた分析の一例をお示ししました。

報告のなかでお示ししたのは、幼稚園での「列になる」ことの練習活動のなかで、「小さい順」という一言でなされる指示に従うための詳細が与えられていく過程です。会話分析的にはいささかまとまりのない知見ではありますが、その集団で以前に行われた教示活動内の資源が再利用されることは、複数日にまたがる場面の分析を通してはじめて発見できたことでした。また、同様の教示活動の系列的な展開は、「列になる」ことに限らず、さまざまな教育場面でも見いだせると考えています。ただしそのような繰り返し行われる実践の技法を明らかにするためには、より焦点をしぼった分析も必要になるであろうことも、今回の報告準備をしながら考えていたことです。今後の自身の課題としたいと思います。

これまで、個々の研究会や論文査読を通してご批判やアドバイスを頂く機会はありましたが、多くのEMCA者が集まる対面での報告は初めてで、厳しいコメントを頂戴することも覚悟をしながらの登壇でしたが、当日の温かい雰囲気に助けられて大変勉強になるやりとりをさせていただきました。特に、西阪仰先生から頂いたご指摘―事例内のオノマトペ(「ガッシャン」)は、「元」オノマトペ的なものであり、教示場面ではすでに独特のアイテムとして用いられているのではないか―からは、今後より詳細な分析に進んでいくための課題を与えていただきました。

あらためて大変貴重かつ光栄な場で研究報告させていただいたことに感謝申し上げます。今回のテーマセッションを通して、教育場面を対象にしたEMCA研究がさらに盛り上がることを期待しつつ、私自身も試行錯誤を積み重ねていきたいと思います。ありがとうございました。

石野未架氏(同志社大学)「授業の緊張とゆるみの生成―教師の板書を手掛かりに」

私の報告(「授業の緊張とゆるみの生成:教師の板書を手掛かりに」)では、我々が一般に感じる授業の「緊張」とは何か、それはいかに生成されるのかという問いにEMCAのアプローチからこたえることを試みました。具体的にはGoffman(1963)が論じた社会的状況におけるtightness(きんちょう)とlooseness(ゆるみ)の概念を足掛かりに、中学校の英語授業場面を対象とした会話分析による検討です。

英語の授業開始場面では、教師がgood morning(/afternoon) everyoneと生徒になげかけ、生徒らがgood morning (/afternoon) +「教師の名前」で応答するという挨拶がしばしば観察されます。教師が挨拶を投げかける相手は、特定の生徒ではなく個々の生徒が形成する集団です。このとき集団は、教師が宛先として認めるに値する何等かの身体的イディオムを表現しています。本報告では、挨拶開始前に教師が集団にどのような身体的制約づけが行うのかに問いへのヒントがあると考え、分析の焦点としました。具体的には、授業開始のチャイムが鳴ってから挨拶が開始されるまでに、いかに教師が生徒の「立場設定」(串田, 1988)を行うのかについて、マルチモーダル会話分析により検討しました。分析では、教師が自ら「理想身体」(西阪, 2008)を提示し、生徒らの身体に制約を設けるという行為を緊張の生成実践として記述しました。これに対して、偶発的な出来事により教師が一時的に「理想身体」を解除する現象を「ゆるみ」の生成実践として記述しました。これらの記述から、授業の緊張の生成には以下の実践が大きく関わると主張しました。1.監視者である教師が生徒らに「生徒集団」としてみなすに値する規範的なふるまい(例:腕を後ろに組んで教師と目をあわせる、など)を提示する実践。2.それら規範的なふるまいが表現されているかどうかを監視しているということを観察させるという実践です。また、これらの実践が学校設備としてのチャイムに反応して実演されることから、一見威圧的な身体の制約づけ(=緊張の生成)実践は、チャイムのような学校設備を利用することで制度的役割である教師の「義務的なふるまい」として位置づけられる点についても議論しました。

以上の報告について多くの重要なコメントをいただきました。なかでもsituational obligation(Goffman, 1963)に関わり私が使用した言語表現「規則」「制約づけ」の重複可能性についてのご指摘はもっともなものと受け止めています。今後整理したうえで議論を精緻化していきます。また、教師が提示する「理想身体」と「監視」の行為が同時に分散して行われているという観察は、今後の分析の課題となる重要な点と受け止めました。そのほかにも重要なコメントや観察点を共有いただき、本研究を次にすすめるための課題を明確にすることができました。セッション・オーガナイザーの黒嶋智美さんと早野薫さん、ご質問・コメントをくださった方々にこの場を借りて御礼を申し上げます。

五十嵐素子氏(北海学園大学)指定討論

このたびは、テーマセッション「授業・教育実践のEMCA研究」に、指定討論者として登壇させていただきました。当方、サバティカルにて在外研修中であることから、オンラインでの参加でした。本セッションは当方が編者として関わった『学びをみとる:エスノメソドロジー・会話分析による授業の分析』の出版を契機とした企画であったこともあり、恐縮ではありますが、編著本を出版した目的、特長、知見でどのような「学び」や「教え」が明らかにされたのか等について紹介させていただき、現時点での授業・教育実践のEMCA研究のありうる方向性について述べさせていただきました。一つは学校教育の「学び」の実践の論理とその実際を明らかにするという方向性、二つ目はEMCAの知見で教育諸学(教育方法学、教科教育学、教育社会学・・等)に貢献するという方向性です。さらに、登壇者のご研究はこうした方向性のもとで、すでに研究を展開しておられると思いましたので、そうした期待のもとに、事前の共通質問として3つお伺いさせていただきました。(1)教育者たちは状況に固有のいかなる方法を用いて授業・教育実践を成り立たせているのか(2)教育を受ける者たちはいかに相互行為能力を発揮し学習をなしとげているのか(3)昨今の授業や教育実践の変化や展開に関わるこの発表のインプリケーション、です。さらに各氏のご報告内容を踏まえ、個別に質問・コメントもさせていただきました。その応答の詳細は省きますが、各氏の報告からは、その対象に応じたアプローチの多様さや知見の展開可能性、教育諸学への貢献が感じられるものでした。今回のテーマセッションを機に、一層の研究交流を深め、教育実践研究の一方法論として、エスノメソドロジー・会話分析の意義を高めていければと感じた次第です。このたびは、このような機会を頂きましたことに、ご登壇者及び世話人の皆様に心よりお礼を申し上げます。