エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2023年度秋の大会・短信

第一部 自由報告

稲葉渉太氏(京都大学/日本学術振興会)

「投資者自身の責任を問う秩序の再編:『証券投資顧問業のあり方について』の分析から」

この度は、貴重な発表の機会をいただきありがとうございました。ご出席いただいた皆様に心より御礼申し上げます。

本報告では、ある行為を自己責任と記述する方法について見通しを与えることを試みました。報告では、1980年代の日本で証券投資顧問業という新しい職業が登場し一般市民の活動としての投資にまつわる秩序が再編されたことに着目し、その再編活動のなかでもとりわけ投資者の責任を問う「自己責任原則」を注視しました。投資にまつわる秩序の再編に着目するにあたって、報告では『証券投資顧問業のあり方について』という報告書を資料として取り上げました。

本報告では、投資顧問業という新しいパーツを投資の活動に導引することで、投資に対する参入障壁が引き下げられていたことを示しました。資料では「自己責任原則」という規則自体は温存しつつも、投資顧問業というパーツを組み込むことで、投資の中に埋め込まれた自己(投資者)の内実を書き換える実践が組織されていました。このことを踏まえ、自己責任における自己という単位が、個人(individual)と重なるものではなく、記述の文脈から切り離せないものであることを論じました。

他にも当日の質疑では、貴重なご意見を賜ることができました。発表を経て今後の研究の方向性が見えたように思います。まず、この研究からどのような一般的なプラクティスが導き出せるのかを考えるべきだと痛感しました。自己責任という記述を与えることは一義的にはなんらかの責任を特定の人物に帰属する実践であるといえます。ただし、行為を記述すること自体が責任帰属のプラクティスになっていること(前田 2005)を踏まえると、数ある責任帰属のやり方の中で、自己責任という記述を与えることはどのような責任帰属のプラクティスなのかを考える必要があるものと思います。またそのうえで、今回扱った資料だからこそ観察可能なプラクティスに照準する必要があると考えました。私が当日報告したこと以外にも、ギャンブルとの類似性を持つ投資という「インチキ」な活動をもっともらしいものとして見せることが資料では同時に取り組まれていたように思います。こうした資料の特性を踏まえるからこそ観察可能になる一般的なプラクティスに照準する必要性を痛感しました。

発表を経て貴重な示唆が得られました。改めまして、この度は発表の機会をいただきありがとうございました。

海老田大五朗氏(新潟青陵大学)

「’Instructions and Instructed Actions’ とハイデガー現象学」

近年のガーフィンケルアーカイブ文書の公開などにより、「ガーフィンケルは自分の学生たちにメルロ=ポンティやハイデガーを誤読することを勧めていた」ということが明らかになってきています。ガーフィンケルは「教示と教示された行為Instructions and Instructed Actions」(『エスノメソドロジーのプログラムEthnomethodology’s Program』第2部6章)のなかで、メルロ=ポンティの逆さ眼鏡の実験を取り上げ、身体と記述の関係を考察しています。他方で、ハイデガーについては、ガーフィンケル自身がハイデガーの名前を冠した造語を提示しているものの、エスノメソドロジーのなかでこうした造語やハイデガーのアイディアがどのように位置づけられるか明確になっているわけではありません。本報告では、「Instructions and Instructed Actions」とハイデガーの『存在と時間』を突き合わせることで、エスノメソドロジーのなかでハイデガーのアイディアがどのように位置づけられるかを検討しました。

この報告で成し遂げたいことは、ガーフィンケルのテクストに可能なかぎり忠実な読解をしつつ、2つの提案を行うことでした。2つの提案のうち、1つは「ハイデガー現象学を理解することが、「教示と教示された行為Instructions and Instructed Actions」におけるエスノメソドロジーとハイデガーの関係を明晰にすることにつながる」ということであり、もう1つの提案が「『存在と時間』においては、ハイデガー現象学の具体例として道具存在性が位置づけられていることを理解することが、「教示と教示された行為Instructions and Instructed Actions」におけるエスノメソドロジーとハイデガーの関係を明晰にすることにつながる」ということでした。

ハイデガー現象学を要約すると、「「現象学」という表現は(探究対象を示すものではなく)第一次的には一つの方法概念を意味する」ものであり、その方法とは、偶然的な発見、外見上証示されたかにみえる概念の踏襲、幾世代をつうじて「問題」として誇示される見せかけの問いを問うことではなく、事象そのものへと向かうことを示しています。また、ハイデガーのいう「現象」とは、「おのれをおのれ自身に即して示すもの」であり、「学logos」とは「(隠れから引き出し、隠れなきものとして)見えるようにする」ことです。さらにいえば、ハイデガーの道具存在性の議論は、まさにハイデガー現象学の顕著な例(透明な道具存在を隠れなきものとすること)なのです。

エスノメソドロジーとハイデガー現象学を並置するとき、もっともわかりやすい重なりは、いわゆるガーフィンケルの違背実験ではないでしょうか。ガーフィンケルは例えばゲームのルールを意図的に破ることによって、人びとが決められルールを守ることへの通常は隠れている信頼を明らかにしました。「教示と教示された行為Instructions and Instructed Actions」にみられるヘレンのキッチンにおける道具存在や道具配置の記述も、このハイデガー現象学を敷衍したものと読み込むことができるでしょう。

「教示と教示された行為Instructions and Instructed Actions」で示唆されるエスノメソドロジー研究は、これまでエスノメソドロジー研究では主題とすることがあまりなかった道具や技術の分析までも射程とするポテンシャルがあります。そのポテンシャルを明らかにしようとするとき、エスノメソドロジー研究におけるハイデガー現象学の位置づけが重要であることは明らかであるように思われます。

このたびは、こうした素描段階の研究にもかかわらず、発表の機会を設けていただいたEMCA研究会のみなさまに感謝申し上げます。

執行治平氏(東京大学)

「居場所施設スタッフと利用者のやりとりにおける話題の管理:利用者からの新たな話題の導入に着目して」

秋季大会にて、表記のタイトルで発表をさせていただきました。あらためて大会の企画・運営にご尽力いただいた世話人のみなさまに、深く御礼を申し上げます。貴重な発表機会をいただき、誠にありがとうございました。

現在私は、青少年が自由に過ごせる「居場所施設」と呼ばれる場で、スタッフが利用者へ話しかけて、やりとりを深め、信頼関係を築いていくことが、相互行為の中でどのように達成されるのかに関心を持っています。

今回の発表では、会話の冒頭付近で、トークを方向付けるような話題が利用者から自発的に導入されたケースに注目し、話題の導入がどのように機会づけられて可能となっているのかを検討しました。

話題導入に関わる先行研究を参照しつつデータを分析した結果、自発的な話題導入が、スタッフから利用者に向けた質問に付随したスロットで行われていることがわかりました。具体的には、(1)質問への応答に続けて、同じ順番構成単位内で応答の詳述をして話題を導入する、(2)利用者からの応答に対して、スタッフが受け止める発話を行い、直ちに次の質問に移らないとき、その機会を利用して話題を導入する、(3)利用者からの応答に対して、スタッフが確認要求やトピック化を行い、再び利用者が応じるスロットが与えられたとき、その機会を利用して話題を導入する、という三つの機会がありました。またそれぞれの機会が、話題を導入する上で異なる働きがあることが示唆されました。

質疑応答では、①データの理解、②研究の位置づけ、③研究方針、④関連研究に関して有益なコメントを多数いただきました。コメントをいただいたみなさまに感謝申し上げます。

①は、スタッフの質問が、カテゴリに結びついた行為についての常識的知識に基づきなされていることに注意を向けることの意義をご示唆いただきました。②は、一見ただのおしゃべりに見えるやりとりに制度的要素が刻印されていることを気づかされました。③は、くり返し行われるスタッフ質問が、それぞれ異なることを成し遂げようとしている可能性に目を向けるよう勧められました。④は、似たフィールドや現象(特に会話の開始部)にまつわる研究をご教示いただきました。

いただいたコメントを踏まえ、これからの研究では、居場所施設という制度的場面における会話の開始部(②,④)にまつわる現象であることに注意しながら、スタッフが質問によって何を行っているのか、より詳細に検討していきたいと思います(①,③)。

最後に、発表へ向けて研究会、データセッション、ゼミ、私信等でご助言をいただいたみなさまへお礼申し上げます。ありがとうございました。

南保輔氏(成城大学)・西澤弘行氏(武蔵野美術大学)・岡田光弘氏(成城大学)・坂井田瑠衣氏(公立はこだて未来大学)

「知覚モダリティに非対称性のある相互行為において歩行訓練士は受け手デザインをどのように達成しているか」

2023年11月の秋の大会で標記の報告をさせていただきました。これに2つのコメント・質問をいただきました。当日もすこしお答えしたつもりですが,これらをこの機会にすこし論じさせていただきます。

ひとつは「かんじ」という言語使用についてです。日常では話し手が確信のなさを示すために使われていますが,当日提示した「上に屋根があるようなかんじってわかりますか:?」という発話においては,視覚障害者が反響定位(など)によって利用可能となっている感覚を歩行訓練士は指示していると理解されます。これがどのようにepistemicsと非対称性に関わるものであるかというご質問でした。これにたいするわれわれの主張は,「かんじ」という言語表現を使わないほかの事例との対比に,歩行訓練士の知識感覚勾配への関心が見られるというものです。後ろから来ている自動車についてはその車音のみでその存在と動きがわかる,それが共有されている。そのために,自動車に明示的に言及することさえなしに「ちょっと待ちましょうかね」と言えば通じる。そして,「電柱がある」と存在を予示・投射しておいて,視覚障害者の白杖が当たったときに「これですね」と言えば,「これ」が投射しておいた「電柱」であることが理解される。車音や白杖の接触について,あるいはその感覚について言語化することはないということです。

もうひとつは,歩行訓練が移動をともなうものである点にかかわる質問でした。西阪の「識別連鎖」を引き合いに出しながら「認識連鎖」というものを提案させていただきましたが,これが歩行にともなう移動という側面を反映していない点を指摘するものでした。これも現象の根幹にかかわる点です。「いまここ」というEMCAの根源的な問題関心があらわれる側面です。一歩進むごとに,自動車が1台近づいてくるごとに「いまここ」が変化することはつねに意識する必要があると考えています。navigationは,つぎの1歩を置くのが,「どこ」かにくわえて「いつ」かということにかかわるのだという理解をしています。

視覚障害者の歩行訓練調査のデータを使った報告は3回めとなります。これまでの報告(そしてわれわれの研究)は,個々の事例の分析と記述に焦点をあてたものでした。今後は複数事例の比較対象ということにもすこしずつ取り組んでいきたいと考えています。

今回コメントくださったみなさん,会を運営してくださったみなさんをはじめ,これまでにわれわれの研究にコメントなどいただいたみなさんにこの場を借りてあらためて御礼申し上げます。

第二部 テーマセッション 「それは誰がやることなのか:相互行為における義務論的(deontic)な権利と責任の諸相」

串田秀也氏(大阪教育大学)

「患者が決定を委ねられるとき:診療場面における決定責任の交渉」

テーマセッション 「それは誰がやることなのか:相互行為における義務論的(deontic)な権利と責任の諸相」に、話題提供者の一人として登壇しました。私の発表(「患者が決定を委ねられるとき:診療場面における決定権/責任の交渉」)では、治療や検査についての意思決定において、医師と患者がdeontic rightをめぐる交渉をどのように行っているかを分析しました。焦点を当てたのは、医師が治療・検査の選択肢を提示して「どうしますか?」と明示的に患者に選択を求めた場合の、患者の返答、およびそれに対する第三位置での医師の対処です。

医師が意思決定連鎖を開始する発話は、自分と患者のdeontic rightの相対的配分について一定のスタンス(deontic stance)を表示しています。医師の明示的な選択の要求は、自身のdeontic rightを最小化、患者のそれを最大化したスタンスを示すものといえます。また、医師の発話に対する患者の反応は、医師のスタンスを承認しているか(deontic congruence)それに抵抗を示しているか(deontic incongruence)という点で区別が可能です。発表では、明示的な選択要求に患者が抵抗する方法を3つ記述し、いずれの場合も患者は返答を通じて、医師が自らに割り当てたよりも大きなdeontic rightを医師に割り当てていることを示しました。このような抵抗は、2つの課題をマネージする必要性に医師を直面させます。意思決定を前に進めるという課題と、患者に選択を要求したことの妥当性を保持することという課題です。実際、第三位置における医師の反応は、いずれも、事例ごとの個別事情に即してこの2つの課題のバランス調整をするものでした。また、このdeontic rightをめぐる交渉の過程で、意思決定の内容に関しても両者から調整が行われていました。先行研究(Stevanovic & Peräkylä 2013)では、意思決定において人々は決定内容を交渉しているだけでなく、自分と相手のdeontic rightsの配分も交渉していることが明らかにされましたが、本発表の分析は、それに加えて、deontic rightに関する交渉が、意思決定の内容やその根拠にも影響を及ぼしうる仕方を例示しています。

発表に対して、deonticな「権利」「権威」「責任」「抵抗」など私が発表の中で使用した概念について、いくつかの重要なご質問をいただきました。発表ではこれらの概念をややルーズな形で用いましたので、もっともなご指摘と受け止めました。また、これらの概念の関係はdeonticsに関する研究の中でもまだまだ十分に整序・明確化されていないと思われ、この研究領域にかかわる研究者のあいだでさらに詰めていくべきだと思われます。この問題意識を共有できたことが、ディスカッションの1つの成果だと受け止めています。セッション・オーガナイザーの横森大輔氏と城綾実氏とご質問くださった方々にこの場を借りて御礼を申し上げます。

黒嶋智美氏(玉川大学)

「サービス提供者の依頼実践にみられる権利と責任の管理:発話の分節化現象に着目して」

このたびの報告では,拙稿(Kuroshima 2023)で行った分析を中心に,サービスエンカウンターにおけるサービス提供者が客に対して行なう,サービス提供を実行するうえで必要な手続き上の依頼のプラクティスについて,義務論的観点からの考察を行いました.そのプラクティスとは具体的に,依頼発話構築の際に,「分節化」がなされることで,依頼発話の産出完了を待たずとも,依頼内容が認識可能になった時点で,客が遂行を黙って開始することが可能になるようなやり方です.日本語の文規範では,述部はターン末で産出されるため,このやり方を用いると,話者は受け手が依頼を事実上受け入れた後に,述部を産出し,順番を完了させることになります.また,日本語では述部で様々なスタンスが表明されるため,自身を受益者と位置づけたり,自身の義務論的スタンスを弱めたりすることがなされていました.そのようなスタンス表明は,サービス提供者である話者の依頼に,本来サービスを受ける権利を持つ客が黙従することによって生じる義務論的非対称な関係性を,他の関係性(たとえば受益関係)に組み替えることで調整を取る一つの手立てになっていること,また,そうした受け手による黙従は,依頼を正しく認識していることの表明であり,特定の義務論的関係性を前提とする依頼行為の構成要素にもなっていることを,逸脱事例(受け手が黙従しない場合,そのようなスタンスの表明による調整がなされない)の分析を通して提示しました.いわば,義務論的権利関係が逆転している依頼活動であることへの参与者の志向が,このような実践をとおして読み取れることが明らかになっていればと思います.

当日のディスカッションでは,たくさんの有益なコメントをちょうだいしました.なかでも,「本事例の依頼における義務論的権利は適切な記述か,むしろサービス提供者の職務による義務に従っているというべきではないか」というご意見について,ここで追加を試みたいと思います.趣旨説明の横森さんのご説明にもあった通り,Stevanovicらによると,義務論的権利deontic rightsとは,さまざまな事柄についての「決定権」のことを指し,「義務obligations」は,そうした権利の行使による行為に受け手が従う拘束,あるいは責務であるとされています.当日うまくお応え出来なかったのですが,本事例で扱っていたのは,サービスの提供を行う際,客に必要な手続きをどのように行ってもらうかという相互行為上の課題に対し,サービス提供者は概ね明示的に「依頼」行為としてそれを乗り越えている事象でした.たしかに,これらの手続きは彼らにとって然るべき手続きの職務として行っている行為だといえるでしょう.それにもかかわらず,じっさいには,たとえば,明確に受け手が従うべき行為として,「ここにお電話番号とお名前を書くこと」のような「指示」として組み立ててはいないこと,むしろ自分にとって利益のある行為として客に依頼する手続きが取られている点は,本文脈での分節化の現象を理解するうえで欠かせないかと思います.つまり,「指示」などよりも,より互いの義務論的権利に配慮した「依頼」という形式があえて用いられているため,サービス提供者の用いているプラクティスの記述,現象の把握には,参与者の義務論的権利に対する志向を考えるべきかと思いました.

また,この他にもご質問いただいた,依頼する「権利entitlement」(Curl & Drew 2008)についてですが,義務論的権利が,他者を巻き込む将来的活動をどのように組み立てるかの選択肢にかかわるとしたら,Curl & Drewの依頼する「権利」は,依頼行為そのものを産出することにかかわるため,両者は異なる水準の権利についての記述であり,区別されるべきであるということも,今回振り返って改めて考えが至りました.

この度はこのような貴重な機会をいただき,誠にありがとうございました.自分では気づいていなかった様々な論点について,串田先生を始め,みなさんのご意見を伺う中で深められました.この時期に本テーマを取り上げていただいたのは,とても有意義だったと思います.皆様に改めて感謝申し上げます.