エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2022年度秋の大会・短信

第一部 自由報告

藤杏子氏(立教大学大学院)

「レンタルなんもしない人」への依頼文に用いられるデザイン

 「『レンタルなんもしない人』への依頼に用いられるデザイン~なにもしないとは何か~」というタイトルで報告させていただきました。Twitterで活動されている「なんもしない」というサービスを提供している「レンタルなんもしない人」とその依頼者をテーマにとりあげ、そもそも年間1000件ほどレンタルさんへ依頼される内容でもある「何もしない」こととは何か?ということに向き合ってみようと思ったのがこの報告内容のきっかけでした。

 具体的にはレンタルさんへの依頼する際のDMと依頼文へのレンタルさんの返信、そしてレンタルさんの今までの利用者の方々が集まる会で実際に「聞く」ということが依頼されたレンタルさんの振る舞いについて、実際の場面のフィールドノートを対象にして内容を報告しました。報告内容としては何回も依頼している依頼者であっても、レンタルさんからの返信ややりとりが「最低限の受け答え」を用いて「他人」であることを維持しようとする実践が確認できたこと、またフィールドノートの実際の依頼場面から、レンタルさんの「聞く」ということが依頼されているレンタルさんの振る舞いを記述しました。そしてその場面で依頼者が自らの能動性を示すことによって「能動-受動」の関係性を示すことによって、レンタルさんの違和感が生じるような振る舞い(例:名指しで問いかけられるまで発話市内、依頼されたような「聞く」という行為に関して強い傾聴の姿勢はとらない)はむしろ正当なものとして受容されていました。

 当日はデータの分析に関してゴフマンの副次的関与からの視点や、「他人」を示す実践がレンタルさん以外の、より広い範囲で見られるのではないかという意見も頂戴いたしました。本報告ではフィールドノートのレンタルさんの振る舞いについて、身体の向きや「聞く」ということ以外の他にどのようなことをしていたのかなどが記述しきれなかったため、今後課題としたいと思います。また、「他人」をし続ける実践については他にも「教師-学生」「先輩-後輩」などの関係性でも見られますのでそれらの関係性との違いなども検討したいと考えています。

 最後に、このように対面でのEMCA研究会を開催していただいたすべてのみなさま、また改めて世話人の方々のご尽力に心から感謝申し上げます。院進してから初めて対面での報告となり緊張しましたが、このような機会をいただけたことを大変光栄に思います。加えて当日貴重なコメントをくださったみなさまに感謝致します。ありがとうございました。

成田まお氏(神戸大学大学院)

歴史資料読解場面における「発見」のワークの組織化 

 この度は,貴重なご発表の機会をいただき誠にありがとうございました。ご出席いただいた皆様に心より御礼申し上げます。

 私は,マイケル・リンチによって先鞭がつけられたエスノメソドロジー的な「実験室研究(ラボラトリー・スタディーズ)」の着眼点・方法を,古文書読解場面に応用することを試みています。ラボラトリー・スタディーズは今日の科学技術社会論(STS)・科学社会学にも大きな影響を与えておりますが,その視線をより日常的(あるいは,こう言ってよければ「人文・社会科学的」)な探究活動に向けたものはそう多くはありません。そこで,古文書を読み史料目録を作成するという活動の中で「日常的・社会的な活動」と「専門性の高い活動」がどのように結びつき,探究活動の諸特徴を生み出しているのかを,フィールドワークと映像の撮影・分析を行うことによって研究しております。

 報告で取り上げたのは,あるくずし字の読み方を検討する場面です。今回の報告では,くずし字を読む際に使用されるリソースを,大きく「文字のくずれ方(=文字の形)」と「文脈」とに分けて,その字がいかにして読まれていくのかを紹介しました。くずし字は,「くずれ方」と「文脈」どちらか一方のリソースのみによって読み方を決定されることはなく,さらに,どちらのリソースがどのように優先されるのかも状況次第で変わりえます。そうした複数のリソースを,場面に応じて適切に使用して読みを決定することができる能力こそが「専門性」である,という考察を行いました。

 当日の質疑応答では貴重なご意見を賜ることができました。質問者の皆様には,この場を借りまして改めて深謝いたします。 さまざまなご意見をいただきましたが,なかでも,「専門性」は読み方の「確定」にのみ関わっているのではなく,むしろ確定させないことこそが「専門的」である場合があるのではないか,というご指摘や,「文脈」という一言で代表させるには,ありうる「文脈」があまりにも多様であるとのご指摘など,当日の報告に欠けていた点であったと存じます。また,グッドウィンの「プロフェッショナル・ヴィジョン」の知見を活かしてはどうか,というご助言も複数いただきました。こうしたご指摘をできるだけ反映させるべく,現在修士論文の執筆に取り組んでいる次第です。

 改めまして,貴重なご発表の機会をいただき本当にありがとうございました。

福島三穂子氏(宮崎大学)

相互行為からみる伝統食の継承

 久しぶりに対面での研究大会が開催され、そのような場で発表の機会を頂けたことを大変ありがたく感謝申し上げます。また質問・コメント・アドバイスを数多く頂けたことは、研究活動へのエネルギーになりました。休憩時間、ランチタイムにもコメントを頂き、対面ならではの有意義な時間も過ごすことが出来ました。重ねてお礼申し上げます。

 今回は、「相互行為からみる伝統食の継承」というタイトルで、宮崎県西米良村小川地区の食を使った地域活性化の事例(小川作小屋村)を紹介しました。データは、郷土料理を提供する食事処で働く地元住民の方々が翌月のメニューを決めている場面で、分析では提案(FPP)と採択(SPP)の間で起こる挿入連鎖に注目しました。そして、その挿入連鎖の中で、彼らが何をSPPを産出するための前提条件(採択の条件)にしているのかを明らかにすることで、郷土料理が彼ら自身によってどう志向されているのか、また郷土料理とは一体何を意味するのかという問題についての手がかりを示しました。

 彼らが挿入連鎖の中で行っていたのは、誰かの畑にあるもので、その時期に収穫量が必要量あるものを材料とするという確認作業で、買ってくるという選択肢については言及がないことが特徴的でした。これは旬の野菜がどう彼らによって志向されているのか、旬の料理がどう彼らの当たり前になっているのかという問題が関わっていました。つまり、地元住民にとっての郷土料理とは、その時期に地域の誰かの畑で手に入る材料を使うことが大前提となっており、レシピを作ることだけでは足りない食の継承の現場を考えるきっかけになるのではないかとまとめました。

 質疑応答では、発表の中で提案と呼んでいた行為は、そもそもどう提案として認識可能になっているのか、単純に提案と呼ぶよりもう少し複雑な行為をしているのではないか、ブレインストーミングのような意見を出し合う場で起こる行為なのではないか、といったFPPとしていた行為に関するご指摘や、挿入連鎖の中で地域の神聖性が表示されているのではないか、また地域の畑と商店などの比較が曖昧であるなどといったコメントも頂きました。提案のバリエーションが挿入連鎖のデザインに関わっているというご指摘の中では、どれだけ採択の権利に志向してFPPを組み立てているのかといった、決定権に関する権利への志向性についてdeontic authorityや、action ascription という概念を取り入れると分析がより明確になるのではないかというご助言も頂きました。発表準備をする中で、構造をはっきりさせることを意識し過ぎ、提案-採択の連鎖を分析の枠組みとしましたが、この枠組みにこだわる必要はないというご指摘もあり、“提案のような行為”をどう説明できるのかについてもう一度データを見直したいと思います。今後の分析を進める上での指針となる、大変貴重なご意見ご助言を頂き、今回発表させて頂けたことを改めて感謝致します。

 最後に、対面開催を企画・運営して下さった世話人の方々に改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

第二部 作品のEMCAの可能性

岡沢亮氏(愛知淑徳大学)

道徳的問題の創造を通じたユーモアの産出:フィクション映像作品の分析

  今回の報告では、「道徳的問題の創造を通じたユーモアの産出: フィクション映像作品の分析」という題目の下、シットコムや映画といったフィクション映像作品を分析することが、エスノメソドロジー・会話分析(EMCA)研究にとって持ちうる意義を論じました。

 フィクション映像作品を分析した既存のEMCA研究を取りあげた上で、アメリカ合衆国のシットコムを題材に、キャラクター間において道徳的問題への志向が見られる相互行為が、制作者によって視聴者に向けてユーモラスなものとしてデザインされていることを論じ、道徳的問題のユーモア化と呼べる現象が生じていることを述べました。これらを踏まえ、フィクション映像作品が、EMの主要テーマである常識的推論の探究、また「自然に生起した」会話ではデータが取りづらい相互行為的現象(例えば性的同意)の解明、そして特定性の強い現象(例えば道徳的問題のユーモア化)の分析にとって有益なデータになりうることを論じました。

 コメンテーターのお二人そして参加者の方々からは、具体的な分析を中心に多くのご意見をいただきました。キャラクターにとっての道徳的な問題が、制作者と視聴者にとってユーモア産出・理解の資源となる相互行為的仕組みとそれを可能にするメディアの参与枠組について、私自身さらに考えていきたいと思いましたし、このテーマについて多くの方に興味を持っていただけたのであれば、大変ありがたいです。

 上述のように議論が分析に集中することは、こうした専門家が集まる場の一つのメリットでもあると思います。ただ、近年より一層EMCA研究の蓄積が進む中で、フィクションさらにはより広く「作品」を分析することの意義について、さらに議論を深められればなお良かったという反省もあります。また、テーマセッション全体の統一性についても、もう少し自分自身がコミットできたのではないかと感じています。もし次に同様の機会がありましたら、プレゼンテーション上の工夫や、他の報告者・コメンテーターの方々との事前の連携により積極的に取り組みたいと考えております。

 いずれにしましても、この度は、貴重な機会をいただきありがとうございました。今後は、必ずしもフィクション作品に限らず、ソーシャルメディアやマスメディア上の相互行為に関してEMCAの立場からの研究を続けていく予定です。論文等チェックしていただければ嬉しく思います。

是永論氏(立教大学)

個人的な経験をニュースに仕立てる:対話的ネットワークを通じた「公共性の導出」

 このたびは「作品のEMCA研究」について、報道番組における一つのエピソードを「作品」として分析した事例(昭和女子大学・小川豊武氏との投稿中の共著論文から)を発表させていただきました。お二人の討論者をはじめとする皆様からの有益なコメントに感謝いたします。

 その際、「個人的な経験をニュースに仕立てる」というタイトルにあるように、インターネット(SNS)の普及が定着する中で、いわゆる「参加型ジャーナリズム」として、一般の人が個人的な経験を語る(投稿する)ことがニュースの素材となったとき、それがニュースとしての公共的な意味(newsworthiness)をいかに持つことになるのかを焦点した分析を紹介しました。

 それに加えて、作品分析の方法論という意味も含めて、Nekvapil & Leuderにより展開した「対話的ネットワーク(DNs)」という実践の概念について紹介しつつ、その概念にもとづく分析事例を示すという形を取りました。具体的なデータや分析内容については、下記の資料を公開しましたので、適宜ご参照ください。 https://drive.google.com/file/d/1z-J_gU1gyeP273KfGIWsHOGhFYITtYQ_/view?usp=share_link

 当日いただいたコメントでは、DNsを用いることの利得がどこにあるか、分析対象(作品)としての特徴をどう示すか、といったことが指摘されたかと思います。当日うまくお答えできたどうかは定かではないのですが、まずDNsは分析概念であると同時に、実践上の概念なので、アクターの広がり方や対象(としてのまとまり方)の適切さというのは個別の実践に即して検討するほかにない一方で、今回のデータとした番組内容の理解に無理がなければ、その点は「自然な理解」としてある程度クリアされていると言えるようにも思います。

 利得という点では、逆にその「自然さ」がニュースを「作品」とした時のクオリティ(の理解)にも関わるのが面白いところかもしれません。つまり、あまりにネットワークの広がりが粗大でアクターの登場が唐突だったり、番組の構成としてまとまりを欠けば、それはたちまち「これがニュース番組なのか」といった理解に行き当たるだけに、そうした次元でDNsの適切さも判断できるようなところがあるのではないしょうか。

 分析について特定のプロットやシーンが選択されることについても、一般的なテレビの見方として、それほど視聴者が密着して視聴するものではないことを考慮すれば、作品(番組)として最初から最後までの構成が整っているかどうか以上に、まさにシークエンスとして、それぞれの場面やアクターのつながりがどう自然に理解されるかが肝要となるだけに、むしろDNsはそこを捉えるに有効な視点であると考えます。

 一方で、討論者の池谷さんには今回対象とした以外のオリジナル部分まできちんとご視聴のうえ、アクターにおける見解の「対立」が示されていたことに言及いただきましたが、そのおかげで、ひとまず分析対象外とした部分がどのように分析したネットワークに関わるのかを再帰的(reflexive)に検討することも重要であることに思い当たりました。

 その「対立」(の解消)に関する実践については、このたび無事に元論文もジャーナルへの掲載が決定しましたので、こちらでの分析を参照いただくということでむすびに代えさせていただきます。

https://www.sciencedirect.com/journal/discourse-context-and-media/special-issue/10T5GV1RGWQ

細馬宏通氏(早稲田大学)

「読む」時間の発生:絵巻物読者の予測の更新

 人は人の行為を観察するとき、自身の参与可能性を測るべく、さまざまな予測を行おうとする。こうした予測は、相互行為が進むにつれて刻々と更新され、行為の意味は遡及的に捉え直される。以上のような過程は、人が何らかの集まりに参入しようとするときに起こることだが、人は、図像や映像に表された相互行為場面を鑑賞するときにも、同じような予測とその更新、そして遡及的な捉え直しを行うのではないか、というのが本発表のアイディアである。

 文字と絵の混在する絵巻物では、文字を読む方向によって絵を読むことが促され、また、絵は一度に鑑賞されるのではなく、徐々に繰り広げられる。そのため、すでに眼前にある部分をもとに、次に繰り広げられるであろう部分を予測するということが起こる。眼前に、相互行為の一部が描かれている場合、そこに描かれている身体の姿勢、視線の方向、表情などから、鑑賞者は次に表れるであろう行為を予測する。繰り広げられた次の行為によって、鑑賞者は予測の当否を知り、遡及的に前の行為の意味を更新することになる。このような鑑賞者の活動を前提とするとき、絵巻物の読解はどう変わるだろうか。本発表では、よく知られた絵巻物から、いくつかの場面を抜き出し、実際に行われるであろう読みを考えた。

 「鳥獣戯画」甲巻第十六紙末尾から第十八紙は、有名な兎と蛙の相撲場面であるが、鑑賞者はすぐにそれを相撲と了解するわけではない。巻物を右から左に繰り広げていくとき、鑑賞者はまず、左方向を見て何ごとかを笑っている二匹の兎を見、このことから、左側に笑うべき何者かがいるのだろうと予測する。少しく繰り広げると、そこには兎の耳を噛んで足をかけて取っ組んでいる蛙が描かれている。この時点で、先の二匹の兎の笑いは、この格闘に当てられたものだと鑑賞者は理解する。しかし、さらに繰り広げると、左を向いて気炎を吐く別の蛙がいる。そして、その左にはどうやら蛙に転がされたらしい兎がいる。さらに左には、この二匹を見て笑い転げている三匹の蛙がいる。この時点で、鑑賞者は、先に耳を噛んでいた蛙と気炎を上げている蛙は同一者であり、これらを異なる時間に行われた相互行為、すなわち異時同図であると捉え直す。さらに、左端の三匹の蛙と右端の二匹の兎とは、中央の異時同図を囲む観客であり、正面から絵巻物を見ている鑑賞者もまた、彼らと同じく、これら異時同図を囲む一人の観客であると気づく。このような相互行為の捉え直しの過程自体が、絵巻物を鑑賞する愉しみであり、この点で、絵巻物の時間は、一枚絵の時間とは大きく異なっている。

 「鳥獣戯画」は詞書のない絵巻であるが、絵の内部にテクストが記されている「是害坊絵巻」では、テクストの配置や順序が、通常の右から左という鑑賞方向とは異なる方向に鑑賞者の視線を導く。その結果、鑑賞者は、繰り広げによって表れる人物によって相互行為に対する予測を更新させられるだけでなく、画中テクストの配置や順序によって、行為の意味を遡及的に捉え直す。その結果、画中テクストを含む絵巻物では、鑑賞による行為の意味の更新はより重層的になる。以上のような鑑賞過程は、現代の読者が吹きだしのあるマンガを愉しむ過程とも共通するものだろう。

コメント① 團康晃氏(大阪経済大学)

 本テーマセッション「作品のEMCA研究の可能性」では、近年のエスノメソドロジー研究の広がり、対面的相互行為に限らない多様な事例、ドラマ、報道、絵巻物といった多様なメディアコンテンツの研究の可能性を確認することができた。

 近年メディアミックス状況における読書実践の研究やソーシャルメディア上での作品制作についての分析を行っていたこともあり、コメントの冒頭では「作品」というもの自体のメディア的な変化、環境の変化自体を想定に入れた分析視座としてのEMCAの意義について近年のメディア研究の展開の紹介を通して行った。「作品」が多メディア間の中で生まれ、多メディア状況の中で経験されるという現状を考える時、EMCA研究の意義は大きいように思う。

 岡沢報告はコメディドラマにおけるユーモアを対象としたものだ。特筆すべきは先行するユーモア研究、「笑い」についてのEMCA研究の死角、限界を整理し、説得的に現象を選び分析する手続きにあったように思う。コメンテーターからのコメントとしては、論文内で分析されることのなかった幾つかの点(ユーモアをユーモアとして認識可能なのは、「不一致」以外にあるのか。作品やキャラクターについての知識を用いる笑いもありうるのか)について質問を行った。

 是永報告は報道番組を「対話的ネットワーク」概念から分析を行うことで、番組においてあるトピックが問題化される過程において用いられている様々な方法を描きだすというものだった。個別の事例についての分析に対して首肯するものの、気になった点としては中心的な分析概念として「対話的ネットワーク」を導入することによって得られる認識利得はいかなるものなのか、という点だった。

 細馬報告は、絵巻物を事例に、そこに描かれるキャラクターの身体や配置、さらに吹き出しといった要素が「読む」時間をどのように生み出しているのかを明らかにした。マンガ研究や美術史研究とも深く関連しうるテーマであり、コメンテーターとしては近接領域における絵巻物のモノ性、メディア性についての研究状況についての質問と、現代の事例としてマンガ的なテロップ研究について質問を行った。

 数年ぶりに対面での研究大会で、世話人、報告者、聴衆の方々、それぞれの苦労があったかと思います。お疲れさまでした。対面開催はそれはそれで良いなとあらためて感じました。

コメント② 池谷のぞみ氏(慶應義塾大学)

 3つの発表を伺って御発表者の方々とやりとりをする機会を得られたことは光栄でした。今後のエスノメソドロジー・会話分析研究(EMCA研究)の広がりや、潜在的な可能性をあらためて感じることができたからです。まず、今回の企画者の一人でいらした吉川侑輝氏が、冒頭の企画意図のお話において、今回取り上げるテーマの「作品」には、いわゆる芸術的な作品のみならず、仕事における文書類まで広げて考えられるとした点です。そのような指摘によって、仕事の場面における文書の研究などを思い返すことができました。

 3つのご発表において扱われた「作品」は、テレビドラマ(岡沢亮さん)、報道番組(是永論さん)、絵図を中心とした古典籍(細馬宏通さん)と、ジャンルは多様でした。とはいえご発表を聴いて、あらためて確信したことがあります。それは、EMCA研究における「作品を観る・聴く・読む経験の研究」の独自性です。「作品」に、鑑賞者/オーディエンスがいかに出会うのか、「作品」の組織化の記述を通じてこれを記述することが、EMCA研究における、「作品を観る・聴く・読む経験」を記述することであるということです。これがEMCA研究の潜在的な可能性を感じたふたつ目の点です。

 次に、今後の研究で考えていく意義があると感じたことを、書いてみたいと思います。まず、人々が「作品」にいかに出会うのかを記述することは、その「作品」を理解する際のコンピテンスを記述することと重なります。研究者は、時間をかけて「作品」を読み解くために、作品の組織化をかなり注意深く吟味します。それによって記述が成立します。他方で、その同じ「作品」を研究以外の、それぞれ娯楽や仕事の一環で人々は観たり読んだりします。活動の一部として「作品」が実際に見られる時のコンピテンスの記述と、「作品」単体を吟味することで得られる記述が異なってくる場合もあると思われます。それぞれの場面でさまざまなコンピテンスを伴って「作品」を楽しむことがあるでしょうし、そしてそのことが制作のなかで想定されている場合もあるでしょう。「作品」をそれぞれに楽しむ余地が残されている範囲は、ジャンルや場面によって異なります。つまり「作品は一人歩きする」余地は多様だということになります。この「一人歩きする」という言い方も場面によって肯定的にとられたり否定的にとられたりしますが、このあたりの現象も今後研究できたら面白いのではないかと考えました。

 最後に、当日のコメントでも触れましたが、今回のご発表は、「作品を観る・聴く・読む経験」を記述したものが中心でした。他方、「作品」を作る活動を対象にした研究が、実は最近の日本の若手の方々の研究に多いということは、あらためて気づいたことです。これらのことを考え合わせると、今回のテーマ「作品のEMCA研究の可能性」は「大いにあり」という結論で締めくくることができると思いました。そういう点で、ひとりの研究者として大いに刺激を受けましたし、今後の研究を楽しみにしています。