エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2021年度春の例会・短信

第一部 自由報告

鈴木 南音氏(千葉大学/日本学術振興会)

演技を演技として見る ―演技の理解可能性についてのマルチモーダル分析- 

 このたびは,貴重な発表のご機会を頂き,ありがとうございました.コメント頂いた皆様にも,この場をお借りして改めて感謝申し上げます.

 本報告は,現代演劇の稽古場面をフィールドとして,演出家や俳優などの参与者たちが,演技を演技として理解可能にさせるために用いているプラクティスの解明を試みました.現代演劇においては,いわゆる「リアルな」演技が目指されているため,演技/非演技の境界は必ずしも明確ではなく,演出家と俳優による発話を中心としたやりとりから,演技という活動に移行する際には,なんらかのプラクティスを用いて,そのことを示す必要があります.

 本報告では,このようなプラクティスの一つとして,俳優が演技開始直前に行なう「俯き」という現象に着目して,「俯き」がそれまでの相互行為から退出することを際立たせると同時に,新たな演技という活動を開始することを,マルチモーダルに示しているということを明らかにしました.

 頂いたコメントは,大きく2つあったように感じております.ひとつには,「俯き」をプラクティスとして記述することが妥当であるのかという,プラクティスの妥当性に関する点,第二に,アスペクト知覚との関連において論じた「見る」に関する論点が,分析部分において十分展開されていないのではないかという点です.第一の点については,今後分析を行なっていくなかで,より説得的な分析を示すことの必要性を痛感しております.とりわけ,なぜ「俯き」というやり方で,演技の開始がマークされたのかという論点は,今後の研究の進展にとって重要な論点であると思っております.他方,やはり演技を演技として理解させることは参与者たちにとっての課題であり,その理解可能性にとって,「俯き」をはじめ,活動の移行を際立たせるようなプラクティスがある程度の役割を果たしているということは記述できそうな予感もあり,今後の分析の課題としたいと思います.第二の点に関しては,その後データを再度見返したところ,「見ることのインストラクション」(Goodwin 1996)と関連付けて論じられそうな現象があり,演技を何に関する演技として見るべきなのか,ということを示すプラクティスとして,今後の議論の俎上に載りうるだろうと考えております.これについては,また機会を改めてご報告させていただければと存じます.

 改めて,このたびは発表のご機会をいただき,ありがとうございました.

 発表に関するご意見や,他のご連絡などありましたら,以下のメールアドレスに,お気軽にご連絡いだたけましたら幸いです.

minatosuzukiplaywright [at] gmail.com

安井 永子氏(名古屋大学・梁 勝奎氏(名古屋大学)・吉田 実央氏(名古屋大学)・張 嘉倫氏(名古屋大学)

日常の活動における発話冒頭の「さあ」 ―演制度的場面としての活動の開始や移行の達成- 

 私たちは、発話が中心となる活動と身体動作が中心となる活動の両方において、活動の開始や移行の位置で用いられる発話冒頭の「さあ」について発表いたしました。「さあ」には、直前の発話に対して不確実性を示す応答詞的なもの(「さあ、どうでしょう」等)の他に、応答の機能を含まない間投詞的なもの(「さあ、始めましょう」等)があると言われていますが、本発表では後者の「さあ」を扱いました。そして、会話分析の手法により、「さあ」の相互行為的役割、及び、その使用における参与者の指向性について、それが用いられる活動や連鎖位置から解明を試みました。

 発表では、まず、制度的場面から、スポーツ実況中継とスポーツのインストラクション場面における「さあ」が、活動の開始や次の段階への移行を示しつつ、次に起こることへの注意を促す働きをすることを示しました。次に、日常会話場面、日常の活動場面(食事の評価、お菓子作り、棚の組み立て)からの「さあ」の事例を示しました。日常の場面からの事例でも、参与者の発話や身体動作から活動が次の段階へ移行することが投射されたタイミングで「さあ」が発せられており、それによって次に起こることへの注意が促されたり、それへの参与が促されたりすることが見られました。

 これらの事例からは、更に、発話者が「さあ」を制度的場面に結びついた言語資源として扱っていることも明らかになりました。これは、「さあ」の制度的場面での使用例が圧倒的に多いということや、「さあ」を用いるのが活動の進行に対して責任と権限のある参与者(先生や司会者など)であるということのみならず、日常場面であっても、「さあ」の後続発話が敬体であることや、「さあ」が、トーク番組や実況中継などの制度的場面を演出する中で用いられることからも示されました。

 これまでの発話冒頭要素に関する研究では、主に、発話の冒頭における言語アイテムが、発話と発話の関係を示す働きに焦点が当てられてきました。それに対し、本発表で扱った「さあ」は、発話間をつなぐものではなく、活動における境界を示し、活動の異なる段階をつなぐ発話冒頭要素でした。また、これまでは、発話が主体となる活動の中で、発話に合わせた身体動作の産出が記述されることが多かったのに対し、本発表では、「さあ」が、発話のみならず、身体動作によっても明らかにされていく活動の展開に応じて産出されることを示しました。これにより、身体動作が主体となる活動の中で、いかにして言語が身体動作に合わせて産出されるのかについての一例を示すことができたと考えています。

 発表後は、今後の分析を発展させていく上で大変参考になる貴重なコメントを幾つかいただきました。日常場面での「さあ」の使用により、話し手が従事する活動が複数の段階を持つ一連のタスクであることが示されるのではないかというコメントがありました。「さあ」が他者からの注意や参与(もしくは関与)を強く促すことは、一連のタスクがクライマックスに差しかかりつつあることが示されることと関連しているように思われます。また、「さあ」の使用は、発話の直接的な受け手だけでなく、その他の聞き手の存在も前提としているのでは、という指摘も受けましたが、これは「さあ」と制度性との関係について考察する上で参考になるものです。これらの点は、その他の貴重なご指摘と共に、今後の分析でさらに検討していきたいと考えています。発表の機会をいただけたことと、貴重なコメントをいただけたことに感謝いたします。

第二部 テーマセッション 「複合感覚性を記述する:映像データからどこまで迫れるか」

坂井 愛理氏(東京大学)

 このたびは、複合感覚性、ならびに映像データを用いた感覚の記述可能性を論点とするテーマセッションに、触覚について研究としている者としてお声がけいただきました。私は、かねてより分析している訪問鍼灸マッサージの事例を用いて、「身体評価における視覚と触覚」というタイトルで報告いたしました。

 訪問鍼灸マッサージは、会話をしながら、患者の身体を見たり触れたりすることによって行われる治療です。施術者は、患部の感覚の有無についての情報を、患者に尋ねることによってはもちろん、触れることや患部の動きを見ることによっても得ることができます。こうして複数のモダリティが組み合わさることによって治療は進められますが、それだけでなく、ときにそれらは参与者によって使い分けられているということを報告では示しました。具体的には、患者に対して患部の状態が良くなっているという評価を伝える際に、施術者がモダリティの様式転換を行っていること、そして、その転換は、評価対象たる身体について共有可能な証拠を確立するために施術者が試みている実践であることについて紹介しました。

 報告を通して、私たちが感覚を他者に伝える仕方を分析するという、EMCAがとりうる方針について示すことを試みました。様式転換を手がかりにして、感覚がもつ社会性の一端を明らかにできると考えています。

 ディスカッションでは、ビデオというメディアの特性について議論することができました。感覚性について考えることは、私たちがどのようにそれを見ているのかについて考察すると同時に、その資料の性質が私たちに何をいかなる仕方で見せているのか、という問題にも言葉を与えていく作業であると考えております。議論を通して、自らの研究に多くの気づきを得ることができました。このたびは貴重な機会をいただき、企画者の先生方にあらためて深く御礼申し上げます。

南 保輔氏(成城大学)・西澤 弘行氏(常磐大学)・坂井田 瑠衣氏(公立はこだて未来大学)・岡田 光弘氏(成城大学)・佐藤 貴宣氏(立命館大学)・吉村 雅樹氏(グッドビレッジ)・秋谷直矩氏(山口大学)

 今回は貴重な機会をいただきありがとうございました。当日は有益な質問やコメントをいただきました。感謝申し上げます。当日の報告では,整理が不十分でうまく伝えきれなかったという反省があります。この機会に,論点を再度提示させていただきます。

 触聴常者(主に触覚と聴覚を使うひと,いわゆる視覚障害者)の歩行実践は、見常者(主に視覚を使うひと,いわゆる晴眼者)の日常的な活動のレパートリーに含まれていない方法を用いて行われています。触聴常者が「聞き分け,触り分ける」方法とそれを「見分ける」訓練士とのやり取りの詳細について,触聴常者が会話に従事しながら,マテリアルな環境との関わり方を変化させていく過程として記述することをめざしました。それが「基本的に視覚情報と音声情報しか伝えないビデオによって,触覚資源は,どのようにして接近可能になるのか」(西阪)というテーマセッションの問題関心へのひとつの回答となると考えたからです。報告では、見常者の多くが意識的には活用したことのない「反響定位」という知覚の方法を取り上げました。「触覚」のわかりやすい事例ではありませんが,ビデオを視聴する見常者である分析者にはアクセスできないという点では同じであると考えました。

 「反響定位」と言われますが,今回のテーマの一つである「複合感覚性」と関連して,聴覚以外の感覚資源が活用されている点がまず重要な点でした。自ら移動し、杖を動かしタッチしている運動感覚、タッチによる触覚、皮膚(触覚)で感じる空気の流れが活用されている可能性を指摘して「複合感覚性」と結びつけました。また,障害物による音の遮蔽(「サウンドシャドウ」)にも言及しました。これは,反響音とは異なる聴覚的資源です。「反響定位」と一口で呼ばれている障害物知覚は,これらの感覚資源を統合的に活用しているものと想定しました。

 報告でくわしく取り上げた事例は,生徒のこの能力を歩行訓練士がいくつかのやり方で目撃しているものとして分析し提示しました。とくに,白杖をそれまでの「スライド」から「タッチ」へ切り替えて路面を強くたたくことを能動的な反響定位としました。反響定位はつねに生じうる受動的なものですが,この場面では生徒の能動性が顕著なものとなっていました。

 しかし,ビデオにうまく記録されていないという点では,反響定位も触覚も似ているところがあります。そういった感覚的かかわりを,そのときの活動においてレリヴァントなものとして当事者が志向する,その場面に着目して分析するということだと考えます。そのときには,当事者の見解がたいへんに役立ったということは強調しておきたいところです。記録されている場面の記憶がないとしても,ある種の感覚的かかわりがどのようなはたらきをしているのかという専門家としての情報が得られるからです。

 当日いただいたコメントにもありましたが,相互行為の側面からの記述,具体的には,歩行や訓練という活動の側面からの記述が不足していたように思われます。今後の課題とさせてください。

 本研究は,JSPS科研費 JP18KT0080「世界の「見え」の共有技法の研究:視覚障害者と晴眼者の相互行為分析」,JP20K20788「非対称的インタラクションへの対照統合的接近:触覚の現象学的社会学構想とデザイン」の助成を受けたものです。

平本 毅氏(京都府立大学)

 テーマセッション「複合感覚性を記述する:映像データからどこまで迫れるか」での話題提供として、「味わうことの実践的編成」と題し、味覚および味わうという実践を分析の俎上にあげる際の論点整理を行った。人はしばしば他の人と飲食を共にするが、その際に味覚自体は他者と共有されない(味覚の一人称性)。しかし、食の恵みを味わい、それを共有することなしには、共食の場はひどく味気ないものになってしまう。だから人は、共食の場で、味わっている様子を見せ合い、味わう実践をより明示的に相互行為の中の出来事として際立たせるための、さまざまな工夫を行う。近年の会話分析研究には、味わう実践に目を向け、その言語的・非言語的構成や、複合感覚的構成を明らかにする研究が増えてきている。本発表では、話題提供者が収集したさまざまな場面の飲食データ(飲食店での客同士のやりとり、飲食店での接客のやりとり、料理人の食材調達場面のインタビュー、観光中の飲食)の分析を行い、次の二点の問題を、味わう実践を分析する際の焦点として提示した。(1)味わいを表明せずとも食べることはできる状況において、味わいを自然に表明する機会をどうやって得るのか。(2)何をどのように食べているかが必ずしも可視的でない状況において、何をどう味わっているかをどう表示するか。(1)は言い換えれば説明可能性の問題である。共食の場ではしばしば会話やほかの種の活動が行われているので、人はいつでも自由に味わいを表明できるわけではない。なぜ、その時点で、食べたものの味わいを表明するかは、提供者がその機会をハイライトする、食べる人がその機会をハイライトする、といったやり方で説明可能なものになることが論じられた。(2)は話題提供者がアントワーヌ・エニオンの接続=愛着(attachment)概念から着想を得たものであり、味わいを表明する際に、当該の人が何を、どう食べ、どう味わっているかはしばしば不可視である状況下で、特定の対象と自分との関係(たとえば野草を、酸味が強い、サラダに使えそうな草として味わっているという関係)をどう他者に可視的なものにしていくか、という問題である。最後に、以上二点は、共食の場にある相互行為参与者自身が取り組んでいる問題だが、これは、映像データを使って味覚とそれにまつわる実践にどれだけ迫れるか?という、テーマセッション自体の問いと同型のものではないか、ということを指摘した。(1)(2)の論点はあくまで議論の材料として提出したものであり、各々体系的な分析を施したわけではない。そのこともあり、質疑応答では少々噛み合ったリプライを返せなかった印象もあったが、論点整理と研究の進展に資する示唆をいただくことができた。飲食場面のデータは今後も増やしていくので、よい結果を残せるように取り組んでいきたい。