エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2021年度秋の大会・短信

第一部 自由報告

李 榮賢氏(神戸大学大学)

身体運動の指導場面における教師による身体的実演と言語的教示 ―ポールスポーツのグループレッスン場面を題材にして- 

この度には発表の機会をいただき大変ありがとうございました。

本報告では、ポールスポーツという審美的スポーツのグループレッスン場面のビデオ分析に基づいて、レッスン場面の状況に応じつつ、身体運動の秩序が二つの教示方法を通じて教師と生徒にいかにして共有されるかを検討しました。

ポールスポーツのレッスン場面では、教師は実演を通じて自己の体を教示の資源として用いて生徒に「技」やその他の動きを教えます。この際、教師は体を用いた「身体的実演」と「言語的説明」の二つの方法を使います。教師は、言語的説明を通じて、実演に解説を加えます。

教師は、身体的実演と言語的説明の二つの方法を、その場の目的と必要に応じ適宜に選択し、使用します。そして、この二つの方法は補完的に用いられますが、両方が同じタイミング、もしくは、異なるタイミングで行われることがあります。このような選択が起きる理由としては、⑴教師が二つの方法を同時に遂行するには時間的・空間的制限がある⑵生徒による教示の理解にかかわる受け手デザイン上の制限があることが挙げられます。

このようにスポーツの指導場面では、時間的、空間的、受け手デザイン的に身体的・言語的教示方法が組織化されていると考えられます。本報告では、これらに加えて、「動作記述の二つの視点」に着目することで教師の教示方法について検討を行いました。

 「動作記述の二つの視点」は、意図に関して中立的な表現として記述されている「外面語(表現A)」と、意図に関して肯定的な記述がされている「内面語(表現B)」に分類しました。(以下、報告の際に使用した例示)

外面語の例)ぶ:ん(.)ぶんって伸びた状態でひっくり返ってあがっていくやんか-

      A:動作をしている(意図に関して中立的)+「やんか」            

内面語の例)脚はちょっとそろえて(0.2)斜め↑うえにあがるつもり(0.2)

      B:動作に先行する時点(意図に関して肯定的)+「つもり」

分析に使用したデータでは、教師が生徒に対して課題を呈示する際に、

(1)過去の課題との対比があり(2)(課題に対する)内面的言語説明が行われた後に、(3)身体的実演が行われますが、これは言語的説明に実演が寄与することであります。それに加えて、⑷実演の後には言語的説明も内面的な用語にまとめられることがみられました。

質疑応答では、教師の教示に対する生徒の反応に注目すること、内面語と外面語が行為者視点からしてどのような意味をなすのかなどの質問をいただきました。報告時のデータの内容や説明が聴衆の方々に難解だったということがあったと思われます。

貴重なご質問、また報告の機会、改めて大変ありがとうございました。質問の内容や今回の経験を活かし分析の内容を深め、次の議論につなげていきたいと思います。

藤 杏子氏(立教大学)

何もしないことの「依頼」の社会的達成はどのように行われるのか

本報告では、Twitter上で活動されているレンタルなんもしない人(以下、レンタルさん)への依頼文を題材にして、依頼する際にどのようなやり方を用いるのかを報告させていただきました。

レンタルさんとは、2018年6月に「『レンタルなんもしない人』というサービスを始めます。1人で入りにくい店、ゲームの人数あわせ、花見の場所とりなど、ただ1人分の人間の存在だけが必要なシーンでご利用ください。国分寺駅からの交通費と、飲食代だけ(かかれば)もらいます。ごく簡単なうけこたえ以外なんもできかねます。」というツイートから始まった、「なんもしない」というサービスを提供する個人のことです。これまで3000件以上依頼が遂行されており、今回はその中でも特に特徴的な3つの依頼「カラオケで歌うとなりのトトロを聴いて欲しい」「作業を見守ってほしい」「遊園地へ同行して欲しい」を取り上げました。分析にあたってSacksの成員カテゴリー化装置を用いて「なぜレンタルさんに頼まなければならないのか」が依頼文の中でどのように示されているのかを探求しました。

これらの依頼を見ていくと、「(依頼すべき親密な)Rpに依頼できず、専門家に依頼するほどでもないので、レンタルさんに依頼する」というやり方で依頼がされているということがわかりました。このやり方も直接的にこの章が用いられているわけではなく、依頼文に出てくる単語や文章から読み取れる内容から間接的に表現、示されていました。このように、本報告では数行の依頼文の中で依頼内容と共に「あなたでなければいけない」ということを詳細に依頼者が盛り込んでいたということ、また「他人だからこそ」なされる依頼をご紹介できたのではないかと思います。

質疑応答においてはたくさんの方からのコメントに加え、データからレンタルさんに対して一種の「探り」があり、適当な依頼を依頼者自身が決められるという点や、独特な言い回しである「誰でも良い」という表現への注目、単純に消去法的に考えるのではなく、より繊細に依頼者が依頼を行っているのではないかなどのご指摘をいただきました。データに対して私自身考えたことのなかった新しい視点をいただきましたこと、心より感謝致します。

あらためて、右も左もわからない若輩者の立場でこのような貴重な機会をいただけたこと、御礼申し上げます。ありがとうございました。

鈴木 南音氏(千葉大学)

演劇の稽古場面における演出家の身体

この度は,発表の機会を設けて頂き,ありがとうございました. 運営の皆さまやコメントを頂いたみなさまに,この場をお借りして,改めて感謝申し上げます.

 本発表では,プロの小劇場演劇の稽古場面をフィールドとして,演出家の身体の転換が,俳優たちが「役に入る」ための資源として用いられているということを,会話分析,とりわけマルチモーダル分析(Mondada 2014)の方法を用いつつ示しました.
 演劇の稽古場において,それが複数人の俳優たちによって演技されるシーンであるならば,一人の俳優が好き勝手に演技をはじめることは難しく,演出家と俳優たちが協働で演技を開始する必要があります.本発表では,そのような,協働で演技を開始するためのプラクティスを,とくに演出家の身体に焦点化しながら,分析的に探り出しました.
 本発表のなかで示した知見は,演出家がダメ出しを終え再び俳優たちが演技をする過程において,演出家が,舞台に正対する形で正座になったり足を伸ばしたりして,舞台への志向を強調した形で示すことが,俳優たちが演技を開始するためのある種の合図になっているということです.いわば,俳優たちが「役に入る」ための相互行為的なプラクティスの一端を記述しました.

 質疑応答においては,様々な視角からご意見を頂戴しました.主に頂いた論点は,大きく二点ありました.第一に,「ダメ出しセクション」から「演技セクション」へと移行するという時間的な(あるいは参与アイデンティティ[西阪 2014]にかかわる)構造化だけではなく,演出家の身体の転換が目の前の空間を舞台として構造化することもありうるのではないかという点.第二に,行為連鎖の組織について,演技の開始は,大きく二段階あり,1)「もう一度同じシーンから始めましょう」というような発話により,演技の準備が開始される段階と,2)演出家が舞台への志向を強く示して開始を促す段階があり,このうちの第一段階(演技の準備[ex. 立ち位置につく])は,第二段階(演技の開始)のための「プレ」になっているのではないかという点です.
 第一の点については,他のデータでも,これと似た現象(たとえば,演出家が正面を向くことによって,[物理的に線が引かれたりするわけではないにも関わらず,]比較的明確に,演技空間と客席側の空間が構造化されるような事例)が確認できています.この点は,より分析を磨いて,またご報告させていただければと考えております.第二の点については,私自身,分析の中であまり整理できていなかった点で,かつ,非常に重要な点であると考えております.とりわけ,データ中に出てきた「歌」をどのように分析するべきかについては,非常に興味深い論点を頂きました.これにつきましては,事例を収集・整理しつつ,より経験的に論じられるように分析を進めていきたいと思います.
 また,演出家が身体の転換によって舞台への志向を示すにあたって,正座を示すことと足を伸ばすことは異なるのではないか,というご意見も頂戴しました.本発表では,ひとまず,舞台への志向を身体を用いて示すという点で同様の現象として扱っていたのですが,たしかに,正座と足を伸ばすこととでは,たとえばフォーマリティという点において大きく違いがあるため,そのことが相互行為の展開と,いかに関係しているのかについては,今後の分析課題であると考えております.

 改めて,この禍において,EMCA研究会を開催していただいた全てのみなさまの並々ならぬご尽力に心から感謝しております.改めて,発表の機会を設けてくださった世話人のみなさま,コメントを頂いたみなさま,ありがとうございました.

 発表に関するご意見や,他のご連絡などありましたら,以下のメールアドレスに,お気軽にご連絡いだたけましたら幸いです.
minatosuzukiplaywright [at] gmail.com

山本 真理氏(関西学院大学)

自己開始修復に対する聞き手反応

この度は発表の機会をいただきありがとうございました。
本発表では、説明や語りにおける自己開始修復(self-repair)とそれに対する聞き手の反応に焦点をあてました。日本語教育や日本語学においてはいわゆるあいづちの重要性が指摘されるにもかかわらず、実際に人々がどのように「うん」「ええ」「はい」「頷き」といった短い反応を使い分けているのか、またどのような位置で用いているのかについて、体系的に説明がなされることはほとんどありません。一方、会話分析の分野では言語問わず様々な研究の蓄積があります。 

そこで本発表では話し手が複数のターンを用いて話し続ける語りや説明場面をデータとし、聞き手が聞いていることや話し手の発話を促すために行う反応をする中で、特に聞き手に特に反応が求められる場合(自己開始修復)に聞き手がどのような位置と形式を用いて反応するのかに焦点をあてました。

分析の結果明らかになったのは、まず、聞き手は自己開始修復が行われればいつでも同様に反応をするのではなく、話し手が修復を行う際の発話デザインや身体的動作、語りや説明における修復の位置(例えば、語りのパンチラインの直前)に応じて、反応の位置や形式を調整していることです。また、その際、聞き手はそれまで説明や語りの継続を促すために用いてきた形式(例えば「うん」)とは区別された形式を用いることもわかりました。具体的には「うん」を用いていれば「はい」や「うんうんうん」という形式の変化によってその場その場でより目立つ反応の形式(発表では反応の「濃淡」ということばで説明しました)を選択し際立たせていました。

聞き手は会話の中で話し手が行う自己開始修復に敏感に反応する一方で、会話の進行性を止めないやり方でその場その場でなされた行為を分析し、反応を示す必要があります。本研究では聞き手のこうした対処が相互行為を円滑に進めるための調整の一つのやり方であると考えています。

オンライン開催だったために休憩時間や懇親会でのディスカッションを行うことができず大変残念でした。是非近いうちに対面でまたみなさまと議論をさせていただく機会が得られることを願っております。

第二部 テーマセッション 「EMCAと対象への習熟」

山田 富秋氏

 2021「秋の研究大会」<テーマセッション>「EMCAと対象への習熟」において、10年ぶりに「歴史性を有するプラクシスとしての方法/内容」というテーマで報告させていただいた。私の報告は、池谷のぞみ「現象学にインスピレーションを受けたエスノメソドロジーの方向性-三人称の現象学をとおして見えること-」(『現象学と社会科学』第4号日本現象学・社会科学会編2021年8月,25-42)を踏まえ、「対象への習熟」を要するコンピタンスは、端的に理解できる自然言語のコンピタンスとは異なるものであるということを確認し、前者の高い専門性を持った活動のコンピタンスを獲得した例として、私が参加した「輸入血液製剤によるHIV感染問題調査研究委員会」(2001-2009)の調査を紹介した。

 私たちは当時の血友病とHIV/AIDSに関する専門的知識を医師たちに学び、当時の医学論文を読みこなすコンピタンスをある程度獲得することに成功した。それによって、1980年代におけるHIV/AIDSに関する知識が、10年という短いタイムスパンにおいてさえ変化することがわかった。これをメンバーの志向性にレリヴァントな「歴史性を有するプラクシス」として位置づけた。例として、安部英の刑事訴訟の2001年の無罪判決を読み解くコンピタンスを提示した。この報告に対して、登壇者からもフロアからも多くの方々にコメントをいただき、議論が大いに盛り上がったことに感謝したい。

前田 泰樹氏

 シンポジウムでは、EMCA研究者は対象へどのように習熟していくか、という問いのもと、自分自身の調査研究を振り返りつつ報告する機会をいただきました。報告は、「『急性期病院のエスノグラフィー』とその文脈」というタイトルで、2007年から現在にいたるまで継続されてきた急性期病院での調査がどのように展開されてきたかを、対象の実践の側から問いを受け取るという方針とともに、紹介させていただきました。 

 報告では、限られた時間で多くのことを述べようとしたために、いくつかの論点が錯綜してしまっていたと思います。方法論上の問題としては、Garfinkel and Sacks(1970)による、メンバーは人を指すのはなく自然言語の習熟を指す、という主張を文字通り受け止めるならば、「見て」「わかる」水準から出発することになる、という点もう少し丁寧に主張すべきだったかもしれません。こうした方法論上の問いは、これまでの仕事でも論じているので、そちらも参照していただければ幸いです。

 その上で、対象の実践の側から受け取った問いに沿って、患者の在院日数が短縮され、急性期医療と地域の間で患者が移動するようになっていく、そのための仕組みを作っていく、そこでの人びとの方法論について、もう少し丁寧に議論ができればよかったと思います。どれだけの手続きを積み重ねることで、人の移動が可能になっているのか(/なってきたのか)、丁寧に記述していく作業が必要だと思います。今後の仕事の中で答えていきたいと思います。 

 当日は、COVID-19対応のさなかにあって、オンラインでのシンポジウムになりました。私自身、必要であれば医療を利用できるという状況があたりまえのこととして成り立つためには、何がなされていなければならないのか、その仕組を明らかにするためにEMCA研究に何ができるのか、考え直す機会になったと思います。企画してくださった世話人の方々、当日貴重な質問とコメントをくださった参加者のみなさまに感謝いたします。

戸江 哲理氏

大会が終わった後で気づいたのですが、私が本研究会ではじめて報告したのは15年前の2006年、まさに今回報告した子育てひろばでのフィールドワークに着手した年でした。報告ではテーマセッションに即して、研究の成果というよりも、研究のプロセスに力点を置いてお話ししました。一言でまとめると、子育てひろばの世界に馴染むにつれて、取り組みたい問いが、その世界で生きる人たちのほうへと近づいていった、ということになるでしょうか。

総合討論では冒頭、樫村志郎先生から、3名の報告者に対して、メンバーシップとコンピタンスをめぐる刺激的なご質問がありました。これに対して山田富秋先生、前田泰樹先生、そして私が返答したわけですが、テーマセッションと呼ぶに似つかわしい、熱を帯びた議論だったと思います。その後も西阪仰先生から、エスノメソドロジー・会話分析と社会問題の関係について、ご所見も交えながらのご質問があったりして、ディスカッションはさらに白熱していきました。私も一参加者として勉強になりました。

それにしても、閉会してから1時間半も議論が続くとは! これもオンライン開催の利点でしょうか。ベテランの先生がたのコミュニケーション「体力」(確か串田秀也先生の造語)に改めて敬服しました。スタミナ切れの私はお先に失礼しましたが、あれからどんな話題で盛り上がっていたのでしょうか。また、お会いしたときにでも教えてください。このたびは、テーマセッションにお声がけいただき、ありがとうございました。