2011年度春の例会が、2012年3月31日に明治学院大学にて開催されました。この例会では通常の報告に加えて、法社会学会との連携企画ということで法をテーマにした報告も募り、EMCA研究の広がりと可能性を確認することができました。報告者による当日の報告の概要・感想の一部をご紹介します(EMCA研究会ニュースレターから抜粋掲載しています。 詳しい内容については会員用のニュースレターでご覧ください)。(編集 小宮)
内容の詳細は→活動の記録(2011年度)をご覧ください。
短信 |
---|
一般報告
北村隆憲さん
「裁判員評議における成員の知識の管理(epistemics)とアイデンティティ―テレビ模擬評議ドキュメンタリーの分析」と題して報告をさせていただきました。(…)報告の意図としては、裁判員と裁判官の評議における、特に、裁判員の発話の「次」の順番で行われる(かつ、条件的適切性が与えられていない)裁判官の発話と実演活動の働きに注目しようとしました。(…)本報告ではとりわけ、別の先行研究で陪席裁判官の活動として特徴的とされている「他者の発言への補足」という言語活動がもつ意味を、相互行為者間の認識・情報の配分問題(epistemics: 知識系)についての会話分析や言語学からの知見に基づいて検討して、実際の評議コミュニケーションのなかで、どのように「裁判官(専門家)」対「裁判員(素人)」という成員カテゴリーやアイデンティティとその「非対称性」(あるいは、「不均衡」)が生み出されるとともに、それらが評議という制度的な相互行為場面において持ちうる、より多様な意味を検討しようとしました。
菅野昌史さん
「判決文における『社会』の用法」というタイトルで報告させていただきました。具体的には、刑事裁判の判決文における量刑判断の場面において、裁判官が「社会」というカテゴリーを用いながら、何をおこなっているのかについて記述を試みました。近年、刑事裁判、とくに少年事件については厳罰化の傾向がみられます。それを象徴する判決の一つが2005年に発生した板橋両親殺害事件です。事件当時15歳の少年に懲役14年という判決を下す中で、裁判官は「社会」というカテゴリーを繰り返し用いています。その判決は、刑事罰を問われないとされてきた年齢が14歳未満へと引き下げられた法改正後、最も重い量刑でした。そして、裁判官が、その量刑を正当化する方法として、「社会」の「許容」、「納得」、「受容」という基準を設定していることに違和感を抱いたことが、本研究のきっかけとなりました。そこで今回の報告では、裁判所のウェブサイトで公開されている裁判例(地方裁 判所公判請求事件)から、「社会」というカテゴリーを含む判決文200件を取り上げ、「社会」という用法と量刑判断との結びつきについて分析を行いました。
團康晃さん
本報告では、声楽のレッスンを題材に、声楽として「歌うこと」の相互行為分析を行いました。データはフィールドワーク中にビデオで撮影した日本歌曲の練習場面です。(…)特に注目したのは、一つにレッスンが持つ行為連鎖の構造、もう一つは指導の際に声や音という非視覚的な情報の伝え方です。レッスンの持つ行為連鎖は、まず生徒の歌唱の後の講師による評価によって指導すべき箇所があるかどうかが示されていました。ない場合は先に進み、指導すべき箇所がある場合、続いて具体的な指導が開始されます。レッスンに特徴的な構造として、生徒がこの指導を受け入れた後に、再び指導箇所の歌い直しが来る点が挙げられます。つまり、レッスンは専門的技能習得を目的に組織されており、講師の指導内容が「わかる」こと以上に、指導内容が「できる」ことが重要なものとなっていました。次に、具体的な指導において、講師が生徒に声や音程といった非視覚的な情報をどのように伝えるのかという点ですが、身振りや身体配置による非視覚的情報の視覚化が確認でき、同時にそのような視覚化された情報を、複数のアプローチで示しなおすという指導の構成によって、指導内容をより良く理解できるように組織されていることを確認しています。
須永将史さん
福島県において、震災および原発事故によっていまだ避難生活を送る避難者の方々に、多くの支援活動がなされています。その活動の一環として、「足湯」があり、本研究では、そうした「足湯」を行うボランティアのみなさんと避難者の方々がどのようなコミュニケーションをとっているかを報告しました。(…)本報告では、活動に参加しながら録画したデータを用い、具体的な発話を通して、特に次のようなことを検討しました。「足湯」という活動では、基本的に会話と手揉みが「同時に」行なわれます。(…)本報告では、このような「手揉み」と「会話」の関係を「ボランティアによる会話の最大化」という側面から報告しました。
書評セッション
山田恵子さん
春の研究例会・論文評セッションにおいて、拙著「リアリティとしての法と心理──法律相談を素材として──」(神戸法学年報25号、2009年)にかかるリプライ報告を行いました。(…)拙著の基本的主張は、法と心理の連関を志向するリーガル・カウンセリング(LC)論者が、当事者達(相談者と弁護士)が二つを分離させる仕方で法律相談を実践している(…)にも関わらず、理論家の立場から二つの連関を推進すること、への批判にあるのではなく、彼女/彼ら(=理論家)が二つを連関させようとする場合に、「二つの連関ないし分離にかかる当事者達の方法論を解明し、それを採用ないし批判・修正する」という研究手続を経ずに、法外在的な臨床心理学(=専門知)に依拠し以て当該連関の達成を試みる、という研究方法を採用したことへの批判にありました。論評および質疑応答を経て、拙著の難点および残された課題が明らかになったのではないかと考えます。
早野薫さん
拙論では、会話で何かを評価する時に生じる「’epistemic primacy’ の交渉」という問題を扱っています。日本語助詞「よ」は、自分が相手より優先的な知識を持つことを主張するのに使用される、という観察を出発点として、では、そのような主張が相手に受け入れられない時には、何が起きるのかを分析しました。そして、評価をアップグレードする、ということが、「epistemic primacyの主張を強化/サポートする」ための資源であることを示しました。また、会話者達は、ただ自分の知識状態を主張するのではなく、「相手との間でどのように知識が配分されているか」についての合意(’epistemic congruence’)を形成することに志向している、ということを提案しました。この拙論について、前田先生から、「評価」という行為/活動の多様性についてご指摘を受けました。(…)高木先生からは、’epistemic primacy’という概念の正当性について問題提起をして頂きました。
平本毅さん
拙稿「他者を『わかる』やり方にかんする会話分析的研究」『社会学評論』 61(2)、 pp。 153-171。書評の様子を報告したい。今回青森大学中村氏、明治学院大学西阪氏のお二方に書評を担当していただけたことは、報告者にとって願ってもないことだった。(…)拙稿の形式はあくまで「連鎖組織の研究」を経験的に行うものであるため、評者からのコメントも分析の細部に集中した。拙稿で取り上げた連鎖は、簡単にいえば、会話中で誰かによる私事語りが行われている際に、聞き手が「わかる」と反応すると、多くの場合「わかる」単体ではその聞き手の反応は終わらず、なぜ「わかる」と言えるのかを聞き手本人の経験に結びつけて例証するような「第二の語り」が付加され、それを語り手が「受け入れ」ることによって経験の「わかちあい」が達成されるというものである。中村氏からはこの連鎖より前の段階ですでに共成員性が確立されていることが重要であるという指摘を受けたが、フロアの方々からも別の観点から、聞き手が「わかる」と言う前の文脈をもう少し詳しく記述すべきであるというコメントを頂いた。(…)また西阪氏からは連鎖により経験を「わかちあう」と記述する際に、何をどのようにわかちあおうとしているかが区別可能であるという指摘を受けた。