エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2014年度春の例会・短信

2014年度春の研究例会が、2015年3月8日に立命館大学にて開催されました。この研究例会では通常の報告に加えて、書評セッションと、樫村志郎先生による講演が実施されました。登壇いただいた皆様による当日の概要・感想をご紹介します。(編集 平本・秋谷)

内容の詳細は→活動の記録(2014年度)をご覧ください。

短信

第一部:書評セッション


山本真理さん(早稲田大学)

拙稿「物語の受け手によるセリフ発話:物語の相互行為的展開」『社会言語科学』16(1),pp139-159,2013を取り上げていただきました。拙稿では、ある一人の参与者が過去の出来事を語る場面において、(物語の内容を前もって知らないはずの)別の参与者が物語の登場人物になったかのようにして参入してくる現象を取り上げました。発話の特徴を直観的に捉えるために当該発話を「セリフ発話」と名付け、物語を語るという活動のどのような位置でその参入がなされ、また、そうした発話によって何が成し遂げられているかを明らかにすることを試みました。

今回いただいた質問に適切に私の不勉強でお答えできていないこともありましたが、多くの方々にお読みいただき、またコメントをいただくことができ、大変勉強になりました。特に、書評者の黒嶋氏(日本学術振興会・千葉大学)、須賀氏(奈良女子大学)には感謝申し上げます。実は、会話分析の世界に足を踏み入れたばかりの2011の春の研究例会において、後に拙稿の一部となるデータについて発表させていただきました。その際、アイデアはまだ小さな種でしかなかったのですが、会場の多くの方から温かいコメントと励ましをいただき、それを励みに拙稿へと育てて行った経緯があります。実となった論文をこうして皆様と共有できたことが、何よりも嬉しいことでした。ご参加くださった皆様に厚く御礼申し上げます。

池上賢さん(立教大学)

拙稿は、現代社会の複雑なメディア環境下におけるオーディエンスを研究する視座として、アイデンティティの重要性を指摘し、その分析視座として、以下の2つを主張したものである。第1に、スペクタル/パフォーマンスのパラダイムである。この理論では、メディアに関する経験を媒介にアイデンティティをお互いに提示しているという。そして、アイデンティティは、ナラティブとして捉えられ、他者に向けて語られるものとして扱われる。

第2に、ナラティブとなり得ない語りを分析する手法として、エスノメソドジーの視座である。筆者はこの視座によりアイデンティティを、相互行為を達成するために語り手によって提示されるリソースとして捉え分析することが有効であるとした。

これら2つの視座は、アイデンティティを研究者がオーディエンスに付与する特徴ではなく、オーディエンス自身が構成するものとしている点が特徴となる。

本稿に対して、書評担当の岡田光弘氏、南保輔氏から複数の指摘があった。すべてを取り上げることは紙幅の都合により不可能なため、筆者が重要と感じた質問を取り上げることをご容赦いただきたい。まず、南氏からは本稿で主張したエスノメソドロジーの有効性について「①複数の出来事の順序関係の中に、かならずアイデンティティが示されるという想定があるのか」という指摘がなされた。また、岡田氏からは、「②語りやナラティブは、文脈から切り離され、切片化されたハードなデータなのか?はたまた、実践のリマインダなのか?そして、ナラティブの対象となっている、その実践を誰が『観察』しているのか?」という質問があった。

筆者は①については「必ずしもそうではない」と回答し、②には「想定としてはリマインダに近い、またそれを観察しているのはその場にいる全員だと考えている」と回答した。しかし、筆者としても当該の回答では、書評者の疑問にたいして十分に回答しきれているとはいいがたいと痛感しているのが正直な感想である。

当日はフロアからも「そもそもナラティブとはどのように同定するのか?」という趣旨の質問があったが、これらの点について十分にこたえるためには、本稿においても十分に定義しきれなかったナラティブや語りという概念について、具体的な事例を検討しつつ、同定することが今後の重要な課題であると筆者は考える。いずれにしても、書評者およびご質問いただいた皆様には感謝を申し上げたい。

團康晃さん(東京大学)

2015年3月、立命館大学梅田キャンパスにて開催されたEMCA研究会2014年度研究例会の書評セッションにおいて、拙稿「学校の中の物語作者たち─大学ノートを用いた協同での物語制作を事例に」をとり上げていただきました。まずは、拙稿を書評対象として選定していただいた大会担当世話人、さらにお忙しい中、拙稿への詳細なコメントを準備していただいた、森一平先生(帝京大学)、戸江哲理先生(神戸女学院大学)に感謝します。本当にありがとうございました。本論文は、学校の中で複数のメンバーでノートを交換しながら一つの物語を作ることを、物語を書くノートの使い方やノートの受け渡しを行う休み時間の廊下といった複数の場面とその連続性に注目して書きました。その主たるデータは、調査者の参与観察に基づくフィールドノートです。評者のお二方からは本論文の試みを適確に受け止めていただいた上で、その試みに対するコメントをいただきました。いただいたコメントに対するリプライはセッション内で概ね示したつもりではありますが、振り返って、評者お二人に共通したコメントを幾つか示します。

お二方から共通していただいたコメントとして、拙稿と従来の教育を対象とした研究、特に教育社会学との関係に関するコメントをいただきました。振り返ってみて、サックスのいうところの「子ども文化」に注目するという方針と、教育社会学における「生徒文化」研究と拙稿との関係をより明確に位置づけることで、本論の視座のオリジナリティをより明確にできたのではないかと思います。また拙稿が、教育のEMで主として取り扱われる「授業」の分析ではなく、「休み時間」の生徒達の活動に注目したものであるということも、拙稿の中では書くことのなかった切り口であり、今後この研究を発展させていく上で参考にさせていただきたいと思います。また、最もコメントが集中したのは、フィールドノートというデータを分析することについてです。特にFN5の分析についてはお二方、特に戸江先生から非常に詳細な再分析、再検討を示していただきました。そこで、フィールドノートというデータを分析することの利点と課題について多くの切り口が示されました。今後、引き続きフィールドノートを分析していく中で、より良いコメントへのリプライとなる研究を積み重ねていきたいと思います。繰り返しになりますが、貴重な機会、重要なコメントをありがとうございました。

第二部:自由報告

荒野侑甫さん(ニューカッスル大学)

今回、はじめてemca研究会の例会にて発表させて頂きました。多くの方にコメントを頂き、今後、研究を進めていく上で、何をしなければならないのか少し見えてきました。まずコメントを頂いた方々にこの場を借りて、再びお礼申し上げます。さて、わたしの発表は課題が残るものでした。例えば、L2相互行為やL2 studiesの研究では、これまで第二言語は言語能力とは何か(言語能力/ 言語無能力とはいったい何を指すのか)という問題に関して議論がされていています。問題は、この言語能力は、あくまで個人の言語の熟達度のことで、相互行為を行う能力や専門的な知識とは別物である、というような議論の蓄積がある、と言う情報をシェアしなかった点です。これを省いた結果として、オーディエンスを置いていった感じは否めません。また、これまでのCA一般において議論されるべき問題についても省いてしまった部分があり、それらを示さなかったために結果として議論が散漫になり、シェアしたいことやシェアされた方が良い箇所などが伝わらなかったことは、わたしが次にしなければならないことでしょう。それ以外にも問題はありますが、いまはもう一度基本に振り返り、いつかまたリベンジができたらと思います。

重吉知美さん(短歌結社水甕)・是永論さん(立教大学)

「短歌の歌会における「批評」の実践」という題で是永論(立教大学)との共同報告を行った。短歌の歌会において作品への「批評」の実践はどのように組織化されるのか、あるグループの歌会を継続的に観察した記録から事例を紹介した。

今回のポイントは三つある。参加者は相手の短歌作品の改善の為により適切な語を提案しようとすること、指導者とフォロワーにはレベルの差があるがそれぞれに行っている実践があること、経験を共有する技法が批評の実践にも結びついているということである。

質疑応答や場外でいくつかコメントをいただいた。「熟練者と初学者のコメント形成の違いに関心がある」、「指導者の人には言葉の言い換えを提案できるほどの成員カテゴリーに関わる知識を他の人々より多く持っているのではないか」、「指導者の話し方がいかにも「指導者」という態度であるのが面白い」など、指導者の実践に関心を持たれた方がいた。指導者については興味深い事例が多くあるので、次回以降の分析に繋げていきたい。

意見をいただいて、報告者たちが自明視していた短歌の技法を再考する機会になった。経験を共有する技法が歌会で発揮されるのは、短歌が作者の経験を素材とした作者性を重視する文学だからだというご指摘があった。会場からの「指導者がフォロワーの批評自体を指導することはあるのか」というご質問には「ない」と回答したが、指導者が批評の内容を指導したり、批評された人物が批評に反論をしたりする場面は見られなかった。こうした歌会での規範について分析していきたい。

他に「歌会における批評自体が参加者自身の自己表現の手段になっていないか」という意見があったが、この歌会においては該当しなかった。ひとつにはこの歌会の参加者たちの実作と批評のレベルが(指導者を除いて)高くなく、彼らは作品を解釈して批評を述べることを先ずは目指しているからである。また、先述のように短歌は作者の経験を主なモチーフとする作者性の強い表現手段であり、自己表現意欲はおよそ作品で為されるもので、それ故に「作品の改善」が一番の関心事になっていくのである。

歌会をエスノメソドロジー的に分析すること、その報告を基にアドバイスをいただくことで、自分たちの創作活動がどのようであるかを理解することができた。こうした知見を歌会グループの人々にもフィードバックしていきたい。研究例会ご参加の皆様にお礼を申し上げる。

梅村弥生さん(筑波大学)

会社の組織図などを見ると、会社組織の仕事というのはいかにも合理的に分業が成立していて、分化した課題が各自の責任のもとで振り分けられ、組織全体の業務が遂行されているかのように見える。しかし、実際の人々の仕事の実践は、分化された業務と業務との調整と連携の繰り返しであり、そのことが自然に起こるのではなく、日々の人々の相互行為を通じて遂行されるのである。このことを、フィールドであるプラスチック成形工場の金型の修理を通じて説明することが、本研究の目的であった。

そして、仕事の活動の連携を象徴的に表しているのが、発表で紹介した金型修理の流れを示す2つのドキュメントであり、1つのドキュメントの空欄を埋めるために行われている2人の社員の会話も、連携と調整の象徴である。社員らは、双方の知識と経験を照らし合わせながら、会話を通じてドキュメントの空欄を埋めるという課題を達成する。

しかし、会話の参与者が日本人社員と中国人社員(日本語がLingua franca)であったことから、そこに言語ギャップが存在している。このギャップが何らかのきっかけになって、会話の進行が一旦妨げられる。会話の停滞部分で、修復と仕事上の知識の参照とが同時に行われるため、会話の組立ては複雑である。発表の時点では、分析が不十分であったためフロアから多くのご意見を頂き、大変参考になった。

発表後に改め分析をしてみたところ、日本人社員が会話の途中から日本人であるカテゴリーへと自らの成員性を変えていることが観察された。日本人社員の問いかけに対して、答えることを期待されている中国人社員がその質問を繰り返すことで、修復を開始している。しかし、日本人社員は相手の修復の開始をそれとは受け止めずに、むしろ日本語の理解だけを取り出して、非母語話者の日本語能力を問う日本語母語話者という成員にシフトしている。このとき、日本人社員は上体をややおこして、この時までの2人の参与のフレームから離れていることもビデオで確認できる。一方、中国人社員は金型修理の管理者としてドキュメントの記録を指さしながら会話の修復を一手に引受け、理解候補を挙げて、理解の一致を試みる。この間、双方の会話にズレが生じているが、最終的にはトラブルは解消され、ドキュメントの空欄は埋まる。発表時点での会話の分析が甘かった点を深く反省している。

本発表を通して、仕事の実践者が持っている専門的知識を多少なりとも身につけることができた。エスノメソドロジー研究が、働く人々の視点に即して仕事を理解するものである以上、必須の知識である。しかし、こうした専門性がある知識は、職場の参与観察では容易に得られるものではなく、特定の課題に直面して初めて得られるものでることも実感した。


講演

樫村志郎先生(神戸大学)

企画者より機会を与えられて、私は「『相互反映性 reflexivity 』の学説史的起源について」というタイトルで講演を行いました。その目的は「相互反映性がエスノメソドロジーの中心的方法であり、中心的現象である」(Garfinkel 1967. p.vii)ことを、社会学学説史的に再解釈することでした。相互反映性とは、「協調的相互行為の諸方法は、相互行為を見てわかるものにするとともに、メンバーにとって理解可能にするものである」ということです。これは、エスノメソドロジーの発見であるとともに、その研究方法であり、その研究成果に基礎を提供するものだとされています。したがって、それはエスノメソドロジーの方法論の原則としてとらえることができます。

私は、この原則が、行為の理解という問題—その同定、観察、記述などを通じて社会的行為の意味の把握をどのように合理的に行いうるのか—に対する、20世紀前半期の社会学的問題の提起と解決の努力の系譜から生まれてきたという解釈を提示しました。そのような解釈にもとづくと、Burke の「忠実さ(piety)」や「スタイル」の概念、Znaniecki や Mannheim の「文化」の概念、ZnanieckiとBurke の「役割」やそれに付随する認識の概念、Schutz, Burke, Znaniecki,Thomas の「動機」や「状況の定義」という概念、Parsonsや上記のすべての人が多かれ少なかれ関わった「社会的行為」や「他者」や「相互行為」という概念などの、相互間およびそれらと「説明可能性」、「グロス」、「メンバー」、「実践」、「秩序性」などのエスノメソドロジーの諸概念の間に系譜的親和性があるということができると考えます。とりわけ、Parsons に由来する「秩序」の概念が、Gurwitsch, Shcutz に由来する現象学的意識分析にいかに結合されたかという問題に、Garfinkel 自身の説明に過度に依存することなく、社会学学説史の基礎の上で答えることができると思われます。この答えは、相互反映性がエスノメソロジーの到達点であるとともに、またそれ以上にその出発点であることの理由を、社会学理論的に理解することにつながります。私の教育と研究の上での経験から、エスノメソドロジーのこの種のわかりやすさを増大させることは誤りのリスクを冒すに足る目的だと考えています。

なお、このテーマに関連しては、年表式のウェブサイト Formative Steps of Ethnomethodologyも運営していますのでご参照ください。

本講演の基礎は、私が神戸大学で2008年ごろから開催している公開講義・研究会「EMCAセミナー」での研究と議論です。その少数の参加者・多数の情報共有者の方々の有形無形の支援がこれに寄与しています。感謝したく思います。