エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2016年度秋の大会・短信

2016年10月23日(日)に成城大学にて開催された2016年度秋の研究大会は,延べ68名の方にご参加いただき,第一部の自由報告,第二部の書評セッション共に盛況のうちに終えることが出来ました.ご報告いただいたみなさま,および書評者のおふたり,編者,著者のみなさまにお寄せいただいたご感想をこちらにまとめました.いずれもご登壇者の方々とフロアの参加者のみなさまの間での活発な議論があり,会を追うごとに研究会全体が盛り上がっていることを実感できる内容でした.ご参加いただいたすべての方々にあらためて御礼申し上げます.(大会担当世話人:黒嶋智美・森一平)

内容の詳細は→活動の記録(2016年度)をご覧ください。

短信

第一部 自由報告

「対話システムらしさ」とは何か?:WOZ法におけるシステム役の相互行為実践

  • 小室允人(千葉大学大学院)

今回は,「「対話システムらしさ」とは何か —WOZ法におけるシステム役の相互行為実践−」というタイトルで発表をさせていただきました.まずは,貴重なコメントをいただいた方々に,改めて厚く御礼申し上げます.本発表ではWOZ法を用いた対話システムとの会話場面を取り上げました.WOZ法とは,システム側の発話をコンピュータが生成するのではなく,実際はシステムのふりをした人間が発話を生成することで,あたかもシステム自体が全自動で会話をしているように見せかけるシュミレーション手法です.「対話システムらしさ」として理解される発話は,つうじょうの日常会話においては起こりえない発話でもあります.本発表では,この起こりえなさが,いかにして理解可能となるのかを,やり取りのなかで「前提」とされていることをめぐる特定の手続き(プラクティス)と共に考察しました.

会場からは「システムの操作者は,本発表で説明されている手続きを意図的に用いているのか」というご質問をいただきました(ご質問を不正確に解釈しておりましたら大変申し訳ありません).これに対する私からの返答は十分なものとは言えませんでしたが,幸いにも質問者の方は本発表の関心を正確にご理解して下さっており,更なる発展のためのコメントもいただくことができました.結果,本研究の論点を,より整理することができたと考えております.

「システムらしさ」の達成の為に,システム操作者が手続きを意図的,もしくは意識的に使用していたかどうかは,本研究の関心ではありませんでした.実際には,今回発表した事例のなかに操作者が「システムらしさ」を意図していなかったにもかかわらず,「システムらしさ」として理解されていた発話もあります.しかし,本研究で考察したかったことは,この「システムらしさ」を,なぜシステムの操作者や対話参加者が,まさにそのような発話として特徴づけることができているのか,ということでありました.

本データを採取したのは,工学,情報学の研究者が活躍するフィールドであり,今後どのようにエスノメソドロジー・会話分析からの知見を説明するのかという課題(これも会場からコメントいただいた内容となります)も,本研究においては避けられないものと考えております.この課題に取り組むことを通じて,現在,いただいたご質問,コメントを盛り込んだ議論を積み重ねている途上にあります.今後の研究発表にてその成果を披露できますよう,引き続き研究を進めていきたいと考えております.今回は貴重な機会をいただき,大変ありがとうございました.

社会生活技能訓練におけるロールプレイについて:その実践的特徴

  • 浦野茂(三重県立看護大学)

「社会生活技能訓練におけるロールプレイについて:その実践的特徴」とのタイトルのもとで、報告を行いました。報告の目的は、社会生活技能訓練(SST)のロールプレイ場面の一部を対象に、自閉症スペクトラムの児童の振る舞いのうちのどの部分に、どのようにして問題が見いだされ、またどのようにしてこれに対する教示がなされていくのか、明らかにすることでした。つまり目指していたのは、問題の可視化と教示についてのSSTに独自の技法の明確化だったと言えるでしょう。個人の内に障害を見いだし、これを治療し、訓練し、支援する。ごく当たり前のこうした実践は、しかしそれに先立って障害をまさに障害として観察可能にする社会的状況の組織を前提として成立するもののはずです。そしてこうした社会的状況は、もちろん訓練場面に限ったものではなく、家庭にはじまり学校や職場、公共的空間などの様々な領域に存在しているものと思われるます。かつてI. ハッキングはこのような自閉症を観察可能にする社会的状況のことをマトリックスと呼び、G. イヤルらは、このマトリックスを1960年代以降のアメリカ合衆国社会のなかに実際に特定する作業を行ってきたました(Hacking, 1999; Eyal et al, 2010)。こうした作業を踏まえながら、この報告が目指していたことは、こうしたマトリクスと言われるものを、相互行為の組織方法として特定するということでした。もちろん、これが実現できたと言うつもりはありません。引き続き自分の作業を続けていかなければと考えているところです。

テレビCMで「おいしさ」を示すことの作用について

  • 大石真澄(総合研究大学院大学)

まずは、2016年EMCA研究会研究大会にて、拙発表をお聞きいただいた諸先生方、コメントをくださった諸先生方にお礼申し上げます。ありがとうございました。

ご指摘をいただき、改めてテレビCMの分析が難しいことの最も大きな理由は、その「見る」実践が、人がテレビCMを見て理解するという一連のシークエンスの中にはあるものの、相互行為としてとらえられるものではないことにあると思いました。したがって、分析に際してはコンテンツが映像として示しうる理解の諸可能性を復元していく必要があると考えております。そしてそこで明らかにできることは「テレビCMの見方」そのものであると思います。

今回の発表に至る研究で、発表者が個人的に重要だなと思ったのは、テレビCM自体の時間の経過とそれに伴う内容の進行は、一見こちらの実践(主として「見る」ということ)とは関係なく進むように思えるが、そうではないということです。わたしたちはなぜか、テレビCMをテレビで流れるほかのコンテンツとは分けて理解していますし、時にはどちらなのかわからなくなることも含めて、テレビCMがそれとして時間経過することには、わたしたち自身のとる相応のさまざまなやり方が介されていることになるでしょう。

改めてこの点を今回の分析に敷衍するとすれば、特定の発話がどのように機能しているか、という問い(今回であれば映像内での「おいしい」という発話)は、当然相互行為やそれを支える会話が下敷きになっている場合と、テレビCMでは異なるものになるだろうということが予想できます。

テレビCM研究において、長い放映年代を含む、大量の映像が参照できるようになったのは、研究史上ここ10年ほどの出来事になります。EM的観点からのテレビCM研究の主たるものには ‘Narrative Intelligibility and Membership Categorization in a Television Commercial’ (Francis and Hart in “Culture in action” Hester and Eglin eds) がよく知られていると思います。この研究ではビールのCMが分析されています。今回の発表を含む一連の研究は、例えていうならば、この研究より細かく「ビールのCMにもさまざまな言及と理解の形式」があることを明らかにしようとするものです。すなわち、数を見ることで初めて気づく理解の諸形式を記述していこうという志向を持つものです。

今回は、細かい分析の過程を飛ばして、結果のみお知らせするような発表になってしまったことは、多くのご指摘をいただきました。上記で記しているような「テレビCMを見るやり方の細やかさ」を発表でも伝えられるよう、今後は発表の仕方など含めて考えたいと思っております。改めて、どうもありがとうございました。

協力的質問

  • フルルバト(専修大学大学院)

EMCA 2016年度秋の研究大会で発表させていただき、誠にありがとうございました。発表を聞いてくださった皆様と貴重なコメントやご指摘をいただいた先生方に深く感謝いたします。

本発表では、平板調による追加疑問文を分析することで、上昇調や下降調による追加疑問文とは異なる行為を行っていることを示そうとした。本発表で分析した2つの事例では、平板調による追加疑問文に対する応答の前には一定の沈黙があり、非優先的応答の特徴を持っています。その応答が最初は理解候補の提示を受け入れることを示すが、その後に理解候補とは別の要素を付け加え、それの理由説明をしています。その特徴は上昇調や下降調による追加疑問文に対する応答とは異なることが確認できました。また、話し手が平板調を用いることで、上昇調による非確実性と下降調による確実性を中立化しているのではないという点でも考察しました。

しかしながら、追加疑問文のコレクションの中で、主に用いられる音調は上昇調であり、全体の66.7% を占めます。それに対して、平板調は出現率が低い音調であり、その事例が4つしかなく、全体の6.7% だけです。そのため、先生方からご指摘がありましたように、平板調による追加疑問文に対する応答の特徴が普遍的かどうかはまだ強く主張できるものではありませんでした。また、平板調による追加疑問文を語りの継続を促すための協力的質問として扱うことも難しくなりました。

今後は追加疑問文だけではなく平板調によるyes-no疑問文を集め、それを詳しく分析することで、平板調の機能と話し手の認識的確実性との関連を考察する必要があると感じます。本発表に対していただいた貴重なコメントやご指摘を生かして、今後の研究に取り組んでいきたいと思います。

異文化間相互行為における第二言語の訂正活動:他者訂正のあとの繰り返し

  • 荒野侑甫(千葉大学大学院)

日常的な異文化間相互行為と発表者が呼んでいる場面(参加者のうち少なくとも一人がある言語を第二言語として使用している場面)における「他者訂正のあとの繰り返し」という現象について報告させて頂きました.本発表で扱った事例は,次のように展開されます.(1)当該の言語を第二言語として話す参加者が,ある表現を産出することが困難であることを示したあとに,その表現の候補を産出する.次いで,(2)その言語の第一言語話者もしくはその言語に習熟した受け手がその表現を繰り返し,訂正を行う.そして第三の順番で,(3)「他者訂正のあとの繰り返し」と本研究が呼ぶ現象が産出される.発表では,「他者訂正のあとの繰り返し」の特徴を明らかにしながら,この現象によって,相互行為上の何が達成されているのかについての議論しました.さらに,本発表における訂正連鎖では,実際のやりとりの展開の中で言語規則の規範性がいかに参照され,いかなる振る舞いと結びつき、いかなる活動が経験されるのか、それを観察可能にさせている手続きを報告しました.

本発表で明らかにしたのは,次のことです.まず,他者訂正のあとには,最初に表現候補を産出した発言者によって何かしらの応答が産出されることが,期待されていることです.このことは,最初の表現候補が「他者訂正の誘い」を行っていることに関係していることが明らかになりました.次いで,他者訂正のあとの応答は,表現候補の産出によって,最初の発言者がなにを行為として行っていたのかを遡及的に明らかにします.第三に,訂正の誘いのあとの訂正は,訂正の誘いにおける表現候補の言語的な誤りを,際立たせながら正しい表現を産出します.これにより,表現候補を産出した話者は,表現候補のなにを誤って産出したのか,そしてそれはいかなる誤りであったのか,さらにその表現を正しく産出するための基準を提示していることがわかりました.この直後に産出される他者訂正のあとの繰り返しは,いかにその訂正を聞いたのかを,発音や表現形式の変形,身振りを取り入れることなどをし,明らかにします.これによって直前の訂正によって行われたデモンストレーションに従うことが,行われることがわかりました.

質疑応答や発表のあとでは,貴重なご意見をいただきました.例えば「なんでデモンストレーションに従うことに評価が与えられないのか?」「なんでこれまで英語の会話だったのに,これらの訂正連鎖では,日本語に切り替わっているのか?」「具体的にこれらの訂正連鎖は,活動のどの位置にあるのか?」など,どれも今後,発表を論文化する際に非常な重要な点であるように思います.これらの課題にどのように向き合っていくのか,じっくり考えていきたいと思います.改めまして会場にいらっしゃったみなさま,そして発表をする機会をくださったオーガナイザーのみなさまに感謝申し上げます.そして,発表前に温かい言葉をくださった同僚のSさんには,とくに感謝したいと思います.ありがとうございました.

一人称代名詞「私」を用いた聞き返し

  • 山本真理(早稲田大学)・張承姫(関西学院大学)

この度、当研究会にて発表の機会をいただき、ありがとうございました。本発表では、「一人称代名詞「私」を用いた聞き返し」という題で、日常会話場面でよく観察される現象について扱いました。具体的には、話者が質問を行ったときに、次の応答すべき受け手が(すぐに応答せずに)「私?」「私ですか?」といった「一人称代名詞」を用いた形で聞き返す現象です。研究の問いは次の2つの観点から立てました。(1)自分に向けられた発話であることが明らかなのにも関わらず、なぜ受け手は「一人称代名詞」を用いて聞き返すのか。(2)受け手は「一人称代名詞」を用いた聞き返しによって何を達成しているのか。

我々の分析では、受け手は「一人称代名詞」を用いて聞き返すことによって、今この位置で唐突に質問が自分(受け手)に向けられたことが想定外であること、そしてそれに対して応答することに躊躇があることを示しているという議論をしました。一方、フロアからは、データによっては「一人称代名詞」を用いた聞き返しが、その後に「私に関することを語る」ことを予告し、語りのスペースを確保する「語りの前置き」のような機能を果たしているものもあるのではないかというご意見もいただき、大変参考になりました。

反省点としては、しぼりこみきれていなかったデータの紹介や分析の説明に、発表時間の多くを費やしてしまったことです。フロアとのディスカッションにより多くの時間を割ければよかったと考えています。

今回の発表をきっかけに、参加された方々からこうした貴重なご意見をうかがうことができ、さらに分析を進めることができると思います。ご参加くださった全ての方に感謝申し上げます。

第二部 書評セッション

酒井泰斗・浦野 茂・前田泰樹・中村和生・小宮友根 編『概念分析の社会学2─実践の社会的論理』

第二部では、酒井泰斗会員・浦野茂会員・前田泰樹会員・中村和生会員・小宮友根会員の編集による『概念分析の社会学2――実践の社会的論理』(2016年、ナカニシヤ出版)を対象とし、書評セッションをとり行いました。評者の池谷のぞみ会員、平本毅会員、当日ご登壇された編者、著者のみなさまより感想をいただいておりますので、下記に掲載いたします。

池谷のぞみ 会員

14章からなる『概念分析の社会学2』の書評をお引き受けするのは度胸がいることでしたし、やはり難しいことでした。個々の章の深い「森」に入り込む際、そして「森」から出たときに次の森との関係を見出しながら読むことを助けてくれるナビゲーションにどんなに助けられたことか知れません。懇親会で会話分析に軸足を置いている人からも、エスノメソドロジーに軸足を置いている人からも、EMCAは共有した基盤を持っているということにあらためて気づいた、という声がありました。ガーフィンケルとサックスが中心となって始めたエスノメソドロジー・会話分析のプログラムでは、実践の記述を通して概念の分析を行うことが中心に据えられていたということの再認識はまさに、本書がめざし、もたらしてくれたことだと思います。

とはいえ、こうした共通理解があったとしても研究が容易に行えるわけではないことは自身を振り返ってもつくづく思います。実践の記述と概念の分析を切り離さないところでいかにメンバーの視点から実践がいかに組織されているのかを記述できるか、新しい対象に取り組む度に模索する必要があります。D. Calvey が以前に、「EMCAは武道のようで、たとえ黒帯をもっていたとしてもその人は求道者でなければならない」と言っていたのを思い出します。

平本 毅 会員

今回の書評では第3章(鶴田論文)、11章(小宮論文)、12章(秋谷論文)、13章(海老田論文)を検討させていただいた。インタビューの音声、模擬評議場面の録画映像、TVで放送された試合映像、コンサルティング場面の録画映像と、多様な資料が各論考の分析対象となっており、いずれも興味深い考察と分析がなされていた。その一方で、いくつかの論考で行われているようにみえる、扱う概念や場面を固定して、それを基点に分析を施していく姿勢は、ふだん会話分析の指針にしたがって、文脈と行為の互いに参照し合う性質を示すために評者が分析上行っていることとはいくぶん距離があるように思えた。

この点と関わりが深い議論が、書評セッションを終えて数人で立ち話をしているなかでなされた。評者の理解では、そこで話題になったことの一つは、プラクティスを記述することと、取り扱う概念(や場面)を定めて分析を行うことが、少なくとも実践的な意味で異なる場合があるのではないか、ということだった。

性同一性障害でも、ユーザーでも、技の予期でもよいが、何らかの概念を分析の俎上にあげるとき、取り上げられる事例の群は、会話分析研究でいうプラクティス—一定の相互行為上の課題に対処するための方法—を解明するために作成するコレクションと同一のものになるとは限らない。会話分析のプラクティスは、ある振る舞いの説明可能性を生み出すための仕掛けであり、コレクションを精査してこれを明らかにするとき、各事例の固有の文脈と、そこでの行為が分ちがたく結びつきながら成立している様子が(分析がうまくいっていれば)示されることになる。一方、扱う概念を定めたとき、その概念にまつわる行為の、理解の、場面の分析的記述は、どうやってその確かさが示されるのか。

書評の中では、些細なことに拘っているようにも映るかもしれない、分析的記述の確かさを一つ一つ問うことを通じて、この問題に焦点を当てようと試みた。評者の力量不足でうまく伝わらなかった部分も多かったが、引き続きこの問題を、よりわかりやすく言語化できるよう考えていきたい。

酒井泰斗 会員

今回のセッションでは 池谷のぞみ・平本毅両会員に書評の労をとっていただいた。お二人には 時間をかけて丁寧に検討していただいたことがうかがわれる的確かつ重要な批評を多数いただき、またフロアからも多くの有益なコメントを寄せていただくことができた。評者、参加者、企画に尽力いただいた世話人の皆さんに改めて御礼申し上げたい。なお西阪会員からいただいた「〈概念の用法〉という表現は不正確であり、表現形式の使用法こそを概念と呼ぶべきだ」という指摘は、この点を気につけるだけで防げる混乱が幾つもあるだろう重要なものであり、特に記しておきたい。

『概念分析の社会学』刊行時セッション(2008年例会)のときと比べると、今回は「実践の記述を如何に行うか」という点に議論を概ね集中することができ、そこに研究会の議論水準の進展を見ることができたように思う。他方、「資料タイプの違いの問題なのか/主題の違いの問題なのか/分析の首尾の問題なのか/方針の違いの問題なのか/方針の定式化の首尾の問題なのか…」といった検討水準のコントロールは今回もうまくいかなかった。これは、一方では この論文集が──執筆者たちが今後の研究で応えていかねばならない──様々な欠点を持っていることを意味するだろうが、他方では研究会の議論水準がまだ充分に成熟していないこと・ここに次の課題があることを示唆しているのではないだろうか。

浦野 茂 会員

拙稿は、「神経多様性」の主張をなすにあたってJ.シンガーの自伝的記述が持つ「強さ」の由来を説明しているものの、そうした強さを備えた主張を組織している方法的「戦略」の記述には至っていない。この点を池谷会員からはご指摘いただき、また戦略の記述となるために必要となる論点についてご示唆をいただきました。拙稿の目指す方向を酌み取っていただいたコメントについては、そのようなものはとても得難いこともありとても感謝しているのですが、以下、わずかばかり申し開きをさせてください。

拙稿の対象は、「神経多様性」という主張です。そしてその目標は、この主張が(この主張についての既存の評定とは異なり)正確なところどのような主張なのか、またその強さはどこに由来するのか、理解することです。そして後者について拙稿は、その由来を、この主張を理解可能なものとして構成する一連の記述の組織方法に見ています。それを箇条書きで述べると次の通りです。

  • 自伝の形で、「母の被害者としての自己から、母と同じく障害をもちうる者へ」という自己の変化を記述すること。
  • そしてそしてこの記述によって与えられる権限によって、自閉症について指摘されている感覚の言明を<自己のものとして>導入することができるようになること。
  • そのうえで、感覚を述べる言明が観察を述べる言明と異なる文法上の特性を持つゆえに、上記のような権限を持ちえない他者には観察に基づいた正誤を問うことができないという帰結をもたらせること。

……と、乱雑に書き連ねてしまいましたが、少なくとも拙稿の目標としては、ある主張を理解可能な主張として構成する際に用いられている文法とそれによる記述の組織を、浮き彫りにするところにありました。とはいえいただいたコメントからは、拙稿がこの作業に成功していないことを感じています。とくに、こうしたドキュメントについて、現象と無関係な関心や分析的概念を適用してしまう自己満足を避けながら、現象に備わる記述の論理を浮き彫りにしていく作業の難しさを痛感しています。頂いたコメントを踏まえ、この点をこれからの課題とさせていただきたいと考えております。

喜多加実代 会員

喜多論文に対しては、(1) 1957年と2004年の平野龍一の主張は、(喜多の指摘とは反対に)法律的な解の提案としてはむしろ連続しているのではないかというコメント、(2) フーコーの言説分析に近い研究は、ウィトゲンシュタインの言う概念分析とは違うことをしているのではないかというコメントが、大きな課題となったと思います。(2) については、特に私が「法や保安処分の『対象』」、「『対象』が違っている」などという言い方をしたこともそうした印象を強化したかもしれません。

この課題に対する回答は以下のようになります。保安処分と心神喪失者医療観察法の、字義通り/定義上の対象者、あるいは指示対象となるような実体を想定するなら、心神喪失の状態で犯罪行為を行った精神障害者は常にその対象者であった。しかし、その心神喪失者がどのようなカテゴリー集合のもとで、あるいはどのような必要性において含まれたのかを見ると、やはり概念として異なると考えられる。その点で、(1) 二時点の主張は異なるもの、(2) 2つの分析は同様のもの、と考えています。実は (1) は、字義・定義上というより概念として同じ(その点で連続)ではないかという趣旨のコメントだと思いますが、ここはまた弁解する機会をいただければ幸いです。

五十嵐素子 会員

池谷会員からは「<教示と学習は独立している>という主張の妥当性」についてのご質問がありました。私のこの主張の根拠としては、以下の二つの事例が念頭にありました。

一つは、他者からの教示がなくても、学習者が他者の行為を真似て(基準を自分の行為に取り入れて)、その行為の学習が他者から帰属される事例(五十嵐2007)があることです。この学習の達成は教示には指向していませんが、ある行為を見た学習者がそれを行おうとし、それを他者から援助されながら最終的に成し遂げ、その結果として学習が帰属されています。これも教育実践において生じうる学習の達成だと考えております。

二つ目は、教示の後に生徒が教示された行為や実践を適切に行っても、学習が評価されない/帰属されない事例があることです。それは、ある行為や課題の遂行が主目的で、そのために教示をしている場合です。こうしたときには、その行為や課題の遂行が適切になされればよいので、教示の後に学習の帰属をわざわざ行うとは限りません。

これらの事例は教示と学習が独立の現象であることを示していると考えておりますが、この点も含め、教示と学習の概念については未だ十分に議論を尽くしておりませんので、今後の成果発表に努めていきたいと思います。

森 一平 会員

私の担当した第10章に対しては、池谷会員より大変貴重かつ鋭いご指摘をいただくことができました。頂戴したコメントは以下のように整理できるかと思います。

  1. (A)「学級」概念の(成員カテゴリー集合としての)形式的特徴と(B)その基礎的運用技法との結びつきの記述に軸足を置きすぎているがゆえに、
  2. (C)「学級」概念が個別の実践のなかで実際に・実践的に用いられているありようについての記述が不十分であるとともに、
  3. 「学級」概念のバリエーションや他概念との結びつき(例えば「学級」が運用される際に不即不離であるはずの「学校」概念との結びつき)も記述されないまま終わってしまっている。

私としては 上記(C)を遂行するなかで(その一環として)(A)(B)を行っていたつもりでしたが、ご指摘の通り結果としては相対的に(A)(B)に関する記述のボリュームが大きくなってしまっておりました。その点でいずれのご指摘もごもっともであり、仮にあくまで(C)に重きを置きながら記述を進めていたら、ご指摘いただいたような違和感を生じさせず、3 に関しても(あくまで実践にレリバントな範囲で)様々な点に配視した記述ができていたかもしれないと感じました。

今後研究活動を進めるなかで、この度いただいたコメントにきちんとお返しできるよう精進して参りたいと思います。

鶴田幸恵 会員

平本会員には、「性同一性障害として生きていく」という発言の合理的性質が議論の前提になっているという指摘をいただき、また性同一性障害の概念分析であるのかという疑問もいただきました。「性同一性障害として生きていく」という発話はフィールドワークをしている中で出会ったことばであり、それをインタビューのきっかけの一つとしたので、その発話自体がどのような場でどのようになされたのかは示すことができません。しかし、私が分析したかったのは、その「発見」自体ではなく、「性同一性障害として生きていく」という性同一性障害の使い方をめぐりインタビューで何が語られたかでした。その目的が十分伝えられる書き方になっていなかったことを反省する機会をいただいたと思います。

また、トランスジェンダーである三橋順子さんが、性同一性障害との差異化によって、どのように自らのアイデンティティを説明するのかを記述し、それに対してAさんが性同一性障害を、トランスジェンダーか性同一性障害かという二者択一的な区別を無効化するかたちで自らに当てはめ、また自分だけではない多くの当事者の生き方の問題として捉えている、ということを記述することは、本書のいう意味での「概念分析」となるはずだと考えています。こちらについても、分析の説得力の不十分さを、今後の課題としていただいたと考えております。

小宮友根 会員

小宮論文に対して平本会員からいただいたコメントには、論文中の分析にかかわるものと、論文集の趣旨にかかわるものが含まれていました。分析にかかわるコメントについては、裁判員の用いる知識タイプの分類についても、特定のタイプの知識の使用に対する順番交替および行為連鎖の関連性についても、論文中の曖昧さを的確に指摘してくださるもので、とても有益な示唆がいただけました。あらためて感謝を申し上げます。

他方、論文集の趣旨とかかわるコメントについては(全体討論時に西阪会員、山崎会員、岡田会員からいただいた疑問ともかかわることですが)「概念分析」という表現が意味するものを十分伝えられていなかったことを反省する機会となりました。エスノメソドロジー研究の方法論上の特徴は、概念分析という表現によってもっとも正確にあらわすことができる、というのが本書の考えですが、一方でその表現の内実についてより明確にすること、他方で実際の分析の仕方を、資料タイプ間の差異を超えてより説得的なものへと彫琢すること、この二つの課題をいただけたと思います。これらの課題について、引き続きエスノメソドロジー/会話分析研究のコミュニティ内で議論ができることを願っています。

秋谷直矩 会員

平本会員より、当日は以下2点を中心にコメントをいただきました。

  1. 分析対象の実践において、「バリューチェーン」という企業活動の考え方に基づいて、「ターゲット」カテゴリーを用いたセグメンテーションがなされていることが非常に重要ではないか。それがあることで、「ユーザー」と「ママ」というカテゴリーを結びついたものとして聞くことができるのではないか。
  2. 社会学の論文としてはこれでよいのだろうが、他分野では受け入れられにくいと思われる。このような論文が他分野でも受理されるようにするにはどうすればよいか。

まず1については、ご指摘のとおりだと思いました。新しい知識の提示とそれを資源とした活動の編成のプロセスを丹念に記述することにより、「プラン作成」という拙稿が照準した実践は、より見通しがよくなるのだろうと思いました。

続いて2についてですが、当該分野で「重要だと思われていて多用されているが、その意味内容が複雑化して一見捉え難くなっている概念」を見つけ、それを人びとが実際にやっていることに即した記述を通して問い直す作業を行うというやり方がよいのでは、とお返事しました。ご指摘では「概念の再特定化」だけでは他分野で通用する論文にならないということでしたが、あくまでも上記の条件に即した問いが設定できれば、それは十分に価値を持つものとして受け入れられると思います。

海老田大五朗 会員

本短信では、平本会員よりいただきました貴重なご批判ご指摘のうち、最重要な論点、すなわち「本論で書かれていることは『柔道における予期』なのか?」という点に絞って回答したいと思います。筆者は「相手の力量を推し量ること」「次の技を予想すること」についての記述をすることで、柔道における予期の一端を示してきました。本論での「予測すること」や「推し量ること」と「予期すること」では身分が異なるというご指摘をいただきましたが、それはご指摘の通りでして、それで「予期が要約表現である」(大意p.259)と記しました。あるいはいただいたご指摘は、「予期」という言葉のもとで、「予測」「推し量ること」をまとめあげることができるのかについて、十分な説明がなされていないのではないかと言い換えられるのかもしれません。この点もご指摘のとおりかと思います。他方で、本論は予期概念の分析そのものが第一の目的というよりも、柔道実践の記述、特に柔道家たちが何かを先読みする実践に関する表現形式の記述を第一の目的としておりました。もっとも、本論はこれらを両立させるような記述・分析を目指しておりました。平本会員よりいただいたコメントを読むに、筆者の至らぬところを痛感させられました。今回頂きました課題を今後の研究活動で解消していくことで、残された回答とさせていただきたいと思います。