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エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2017年度春の例会・短信

 2018年3月31日(土)に関西学院大学梅田キャンパスにて開催された2017年度春の研究例会は,延べ71名の方にご参加いただき,第一部の自由報告,第二部の企画セッション「成員カテゴリー化装置を再考する」,共に盛況のうちに終えることが出来ました.ご報告いただいたみなさま,および特別企画にご登壇いただいたみなさまにお寄せいただいたご感想をこちらにまとめました.午前の部、午後の部共に昨今の研究動向を押さえながら,今後のEMCA研究の展望を見据え議論を深める大変よい機会となりました.ご参加いただいたすべての方々にあらためて御礼申し上げます.(大会担当世話人:森本郁代・團康晃)

内容の詳細は→活動の記録(2017年度)をご覧ください。

短信










自由報告

串田秀也(大阪教育大学)・川島理恵(関西外国語大学)・阿部哲也(関西医科大学)
「総合診療科診療における受診の正当化―病院・部門への適合性と受診経路の語り―」

 私たちの報告では、総合診療科の初診場面において患者が受診を正当化するために用いているプラクティスを記述することで、先行研究では指摘されていない受診正当化の付加的側面があることを示した。Heritage & Robinson (2006)や Halkowski (2006) は、主としてアメリカの急性期プライマリケア診療の分析に基づいて、患者が受診を正当化する基本的やり方として、問題を医療適合的(doctorable)なものとして描写するプラクティスを記述した。だが、総合診療科のデータでは、これに加えて、患者が問題を特定の病院や診療科に適合的なものとして提示しようとする工夫が見られた。
 患者が紹介なしに受診している場合、患者は問題提示において「非日常性への困惑」や「重大な疾患への不安」を示したりすることで、問題がよくある急性疾患とは異なり、より高度な医療に適合したものであることを示していた。また、総合診療科受診を明示的に説明するときには、「他にどこに行けばいいか分からない」など、適合した診療科を探索したうえでそれに挫折したことの帰結として、受診が正当化されていた。これらのプラクティスを通じて、患者は問題を相対的に高度な医療に適合したものとして提示していた。
 患者が紹介を受けて受診している場合、総合診療科を受診していることはすでに紹介医によってオーソライズされている。だが他方、紹介されたという事実は、問題がすでに医療の手の中にあるにもかかわらず未解決であることを意味する。紹介あり患者の問題提示は、自分が適切に医療にかかわってきたにもかかわらず問題が未解決であることを示す3つの工夫(最初の受診場所選択の典型性を示す、その後の自発的受診を医師の指示に従った健康管理の一環として特徴づける、問題がいまだ未解決であることを冷静に「受容」しているスタンスを示す)を伴っていた。そしてそれを通じて、問題を少なくとも1人以上の医師に解決できなかった「難解な」ものとして、したがって高度な医療に適合したものとして提示していた。
 以上のような特徴は、受診正当化という課題に取り組むに当たって、患者が、日本の医療制度に特有のフリーアクセス制(患者が受診する場所を自由に選択できる制度)に敏感な形でふるまっていることを示している。他方、医師の方もこの制度的環境を参照することで、自らの実践的課題に対処することができる。患者が問題提示において以上のような正当化プラクティスを用いていない場合、一つの帰結として、医師は、患者がまだ「本当の」主訴を開示していないのではないかという疑問を持ち、それを見出す努力を開始することができる。このように、参与者が特定の制度的環境を参照することによって、相互行為の中の実践的課題を解く具体的やり方を見出していることは、制度が相互行為を通じて実現されるということの一つの具体例だと言えよう。
 最後に、発表に対してフロアからいくつかのたいへん有益なコメントをいただいた。記して感謝する。

坂井愛理(東京大学大学院)
「訪問診療・訪問マッサージにおける「嘆き」の理解可能性」

 この度は、貴重な報告の機会をいただきありがとうございました。また、当日はフロアからたくさんの質問をいただきました。この場を借りて改めて御礼申し上げます。
 この度の報告では、訪問マッサージのやりとりで患者が問題提示を行うとき、どのようにして身体の意のままならなさについて嘆くのか、その方法について考察いたしました。訪問マッサージとは、歩いて通院することのできない高齢者や身体麻痺を持つ患者が、週に2回ほど定期的に受ける医療マッサージのサービスです。マッサージ開始部には患者が今日の体調や問題について訴えるための機会がありますが、そうした手順中に用意されていないような場所でも、患者は様々な問題提示を行います。このようなとき、嘆き、すなわち、「いまここで訴えずにはいられない、専門家に対処を求めない問題提示」はどのように行われるのかについて考察いたしました。報告では、まず、施術中に行われた問題提示は、施術者による部位の特定と、施術者による問題の是認を経て、施術者がマッサージを通して解決する問題として、施術化される方向へ傾向づけられていることを、事例とともに示しました。続いて、患者は、こうした施術化に抵抗することによって、問題 の緊急性を軽減し、問題提示を「嘆き」として差別化していると考察しました。例えば2つ目の事例では、患者は、体勢変換活動を行うタイミングで、手の痛みについて訴えます。このとき患者は、施術者による部位特定活動に抵抗し、かつ、問題提示から始まるやりとりを副次的活動として組織することで、問題を施術化から差別化していました。さらに、「これはしようがない」という、問題が解決されるような可能性を無効化するような表現でやりとりを終了に向かわせることで、明確に、一連の問題提示を嘆きとして分節化していました。続いて3つ目の事例では、患者は、足の冷たさについて呟いたのち、施術者による問題の是認をブロックするように、自らが考える推論(「歳だから」)を示していました。両事例において、患者は、やりとりを施術化のトラックから外すことによって、問題を嘆きとして分節化しようとしていました。またこのことは翻って、患者が身体上に発生した問題を提示したとき、それを施術のトラックの中に組み込むことが、マッサージ場面のデフォルトなのではないかと考察しました。
 質疑応答では、「いまここで訴えられずにはいられない、専門家に対処を求めない問題」に「嘆き」というラベルを貼ることが適切であるのか、多くの質問をいただきました。また、患者が行なっているプラクティスだけでなく、施術者の受け取り方についても考察すべきなのではないか、といったコメントをいただきました。今後さらなる精緻化を目指して行きたいと考えております。

梅村弥生(千葉大学大学院)
「予備的アクティビティを導入する「~じゃない(ですか)」」

 この度は,発表の機会を頂きましたこと,また会場から多くの貴重なご意見を賜りましたことを感謝申し上げます.以下に発表の要旨とフロアーから頂いたご意見を纏めます.
 「〜じゃな↓い(です↓か)」に関しては,特に会話で多く用いられていることが指摘され,日本語学の新しい研究テーマの1つとして注目されています.そこでは,全ての場合に共通するコアな意味や機能を話者の主観性に依拠して探る方向が主流です.こうした観点に対して,この形式によって協同的に組織されるコンテキストが見逃されてはいないか,また連鎖的な視点に立たない分析で共通するコアな機能や意味を特定することがどこまで可能か,といった疑問を抱くようになりました.
 上記のような疑問点をきっかけに,自然会話における当該形式のコレクションを作ったのが本研究の始まりでした.コレクションを通じて気づいたことは,当該形式が持つ全てに共通する働きや意味というより,むしろそこで達成される相互行為に幾つかのタイプがあるということです.その中の一つが,研究会で発表した予備的アクティビティを組織する「〜じゃな↓い(です↓か)」であり,この形式を用いて参与者らは「確認する」隣接ペアを構成することによって,主たる活動に向けた準備を行なっていることが見えてきました.
 その特徴として,以下3点の特徴を上げることができます.
  1. そこで確認されていることは,参与者らにとって極めて常識的な知識であり,聞き手が知っていることが当然とされる事がらである.
  2. 殆どの場合,確認の応答には肯定の応答が後続する.中には「はい」や「そう」に加えて,「行く行く」や「そうしますね」など肯定のトークンが追加される.つまり,否定疑問文形式でありながら確認を求められている内容は肯定の事がらである.これは,Koshik(2005)が極性反転疑問文(Reversed-Polarity Question)と名付けた英語の否定疑問文に共通した特徴である.
  3. 確認が終了すると,話し手は,確認した内容を取り込む,あるいは引き継いで主たるアクティビティを開始し,報告したいこと,聞いておきたいことなど本来のアクティビティが展開する.ここでは,確認された内容を「あそこ」や「みんな」のような代名詞を用いて,Sacks(1992)のtying techniqueによって取り込む場合と,「なんですけど」や「で」といった接続詞によって確認された内容を引き継いでいく場合とがある.何れにしても,確認だけで終了することはなく,「〜じゃな↓い(です↓か)」が主たるアクティビティに対して,予備的なアクティビティを構成することがわかる.また,いきなり予備的アクティビティで始まる場合がある一方で,経験の語りの場合などでは,物語の前置きの後に予備的アクティビティが開始されることが多い.この場合,予備的アクティビティは括弧で括られるような副次連鎖(Jefferson)を構成するのとは異なる.確認の連鎖の後に前置き部分に戻るのではなく,連続して主たるアクティビティが開始されるのである.そのため予備的アクシビティは副次連鎖の場合のように括弧に入れられる位置づけではない.
 こうした特徴を踏まえ,主たるアクティビティが例証や提案の場合は,聞き手の理解可能性を志向した予備的アクティビティを構成し,物語りの場合は,山場に向かった語りの中に予備的アクティビティが引き継がれていくことが明らかになりました.
 当日,フロアから,予備的連鎖の段階で既に主のアクティビティが始まっているケースもあるというご指摘でありました.本研究の「予備連鎖」は,主たるアクティビティに取り込まれ,引き継がれるように本連鎖に入り込んでいきます.その点で,「先行連鎖」(Schegloff, 2007)とは異なる「予備」性をさらに詳しく検討すべき課題であることがわかりました.また,当該形式に近い「〜で↑しょ」との関係性に関するご質問も頂きました.「〜で↑しょ」のコレクションを作っていないのですが,いくつかの事例による比較も今後の課題であると思います.また,「〜じゃな↓い(です↓か)」で始まる場合,トピックの提示にもなっていることをご指摘いただきました.トピック提示のきっかけにこの形式が用いられていることは,引き継いだり取り込む場合とは別の意味で「予備的」であることと考えられます.「予備的アクティビティ」の構成の下位分類のヒントをいただきました.この他にも多くのご意見ご指摘を頂きました.今後の課題として真摯に向き合いたいと考えております.  以上
Jefferson, G. (1972). Side sequences. In D. Sudnow (Ed.), Studies in social interaction (pp. 294–338). New York: Free Press.
Koshik, I. (2005b). Beyond rhetorical questions: Assertive questions in everyday interaction. Amsterdam: John Benjamins.
Sacks, H. (1992). Lectures on conversation, 2 Vols. (Fall 1964–Spring 1972). Oxford: Blackwell.
Schegloff, E. A. (2007). Sequence organization in interaction: Volume 1: A primer in conversation analysis. Cambridge University Press.

岡田光弘(ICU教育研究所・研究員)
「エスノメソドロジー研究は、「社会学ヴァージョン2.0」なのか?」

 佐藤俊樹氏の『社会学ワンダーランド』での議論を参照点として、エスノメソドロジー研究を社会学において位置づけようと思った。
 氏の議論において、普通の社会学、すなわち、「社会学1.0」とは、「「常識は正しい」は正しくない」という主張するものであった。それに対して,「社会学2.0」は、「「「常識は正しい」は正しくない」は正しくない」というものであり、単純化すると「常識は正しい」という主張になるものであった(議論α)。これに対して,「社会学1.5」の議論は少し複雑で, 「「「常識は正しい」」は正しくない」は正しくない」が「常識は正しい」とならない主張で(議論β).単純化するなら「常識は正しかったり、正しくなかったりする」というものである。この議論αとβに共通しているのは、「」づけという反省の作用が,社会学の知見を相対的に客観化するものになっているということである。
 経済(政治、法etc )学との比較において,社会学は、全体としての社会を(個人が社会の中にいるという意味で)内側から観察する学的な営みであり、エスノメソドロジー研究(観察社会学)は、社会(的な事実)を産み出す方法を(それを「見て」「学ぶ」「利用する」という意味で)内側から観察する学的な営みである。社会学が「見えない(心や全体社会)」を見る「客観的」な認識には、1)心理/行動 の二分法における心理(内側)を観察するための特別な理論が必要となる。
 他人は見えないが、不可謬な心は、まずは、それ自体を「一次理論(by 盛山)」であると仮定し、「理論的な存在者」として見えるものにすることができる。加えて,それが「反照性」(了解⇔行為、行為⇨制度)を経ることによって観察可能になる。これは、相互行為と制度的な事実の反照性から、事後的にものが見えてくるとする点で、Kripkenstein的である。
 しかし、まずもって、研究という活動が可能であるなら、個人である研究者にも、確かな何かが見えているはずである。「心」「動機」「信念」は、成員性に基づいて理解、観察、記述できると考える、Schutz、Gurwitsch経由の「自然的態度の構成的現象学」+Winchenstein派という立場がありえるだろう。
 結論として,EMは、「社会学0.0」なのでは?と考えている。「「「常識は正しい」」は正しくない」は正しくない」が意味するのは、「常識は(科学的な)事実として、プラグマティックに正しい」となる(議論γ)がありえるだろう。これは、「願望」としての(科学的な)「客観性」に拘らないので、常識を中傷することはない社会学である。「常識」を踏み越えない,非常識な社会学である。

李 英(大阪大学大学院)
「同席調停における解決案の模索過程」

 この度はこのような貴重な機会をいただきましたことに、改めて感謝いたします。 お忙しい中、発表を聞きに来てくださった方、ご丁寧なご意見、ご指摘をくださった方に心より感謝申し上げます。今後の勉強を進めていく上で大きな励みとなりました。
 本報告は、同席調停の解決案の提示に至るまでのある論点の提起および論点の構成過程を解明することを試みました。具体的には、当事者がどのように論点のリアリティに注目しているかに焦点を当てて、同席調停の現場での当事者間または当事者と調停人間の相互行為のシークエスンを分析しました。分析では、申込人が騒音問題についての苦情を記述し、その苦情の内容が相手方、他の申込人、調停人との相互行為の中で変容していく社会過程、つまり、苦情の公共的産出がいかに取り組まれているかを明確にしました。その結果、当事者は言語表現によって論点のリアリティを構築しており、また、論点のリアリティに注目することにより、苦情および対処すべき事態の産出に参与したことがわかりました。
 質疑応答では、論点のリアリティとはどういうことを意味しているか、定義が不明確であること、同席調停についての一般的な説明がなされていないこと、報告の内容と先行研究として引用したレビン氏の理論との接点が不明確であることに関してご指摘をいただきました。最後の点について、時間が足りなく、応答できませんでしたが、ここで簡単に補足させていただきます。レビン氏の理論では論点のリアリティより、当事者の語りの背後におけるニーズに焦点を当てていますが、しかし論点のリアリティが何なのかについての当事者間の議論も固有の意味を持つのではないかと述べたと覚えています。
 当日は報告の準備が不十分であったため、私が報告を最後まで完成することができませんでした。今回の報告の経験を、私自身の研究内容を見直す機会と捉え、今後の研究をさらに充実していきたいと思います。重ねて厚く御礼申し上げます。

李 榮賢(神戸大学大学院)
「身体的インストラクションによって導かれるスポーツ規範と美の共有―ポールスポーツのグループレッスン場面を通じて―」

 今回2017年度春の研究例会にて「身体的インストラクションによって導かれるスポーツ規範と美の共有」という題名で報告させて頂きました。多くの方から貴重なコメントを頂いて、誠にありがとうございました。
 本報告では、ニュースポーツであるポールダンスを研究の対象として取り上げ、スポーツとしてのポールダンスの規範と美的価値がどのように共有されるのかを考察しました。そのため、ポールダンスのレッスンが行われるスタジオのフィールドワーク、主にはレッスン場面での「技術の教示」の際の講師と生徒の相互行為に注目しました。
 「技術の教示」は、講師の教示(行為)、生徒の練習(行為)、課題(わざとその他)からなり、「教示―練習―再教示―練習」を一つの単位とみなして分析を行いました。再教示の場面では、講師の否定的・肯定的評価により生徒の演技が中止・継続されることがみられますが、分析ではこの再教示の部分に焦点を当て、二つの場面を検討しました。
 一つ目の場面の分析からは、
  1. 生徒の演技に対する講師の再教示は「オンライン」型で行われました。「オンライン」とは、健康診断の場面で医師が患者の状態を診ながら、その状態に同期するような形でコメントをする(Heritage and Stivers 1999)先行研究を参考にしたものです。なお、オンライン型の教示は、教示のタイミングを失うと教示としての機能を失う可能性があります。
  2. 講師の教示には、言葉による動作の記述(オノマトペ)と実例(身振り)の提示を両方行う方法があります。 二つ目の場面からは、
  3. 教室では個人の演技を契機として行われた教示は、演技の当事者以外の人にも向けられ伝達されることが見られました。
  4. 「きれい」な演技は、講師の教示(模範演技)に限定されず、その場で見出されうることを分析しました。
 質疑応答においては、本報告のタイトルに提示されたポールダンスの「規範」の意味、また、オンライン型の教示を用いる場面の分析に関するコメント、模範演技の伝達の確認に関するコメントなど、多くのコメントを頂きました。
 当日は時間配分がうまくできず、ぎこちない報告・応答になってしまったにもかかわらず、多くの方々から貴重なご意見を頂き、あらためて感謝申し上げます。

安達来愛(一橋大学大学院)
「演劇におけるトラブルへの対応の研究」

 この度は,貴重な報告の機会をいただきありがとうございました。また,報告までの間データに関するコメントをいただいたビデオデータセッションをはじめとするみなさま,報告を聞いてくださったみなさまに厚く御礼申し上げます。
 本報告では,演劇におけるトラブルへの対応はどのようになされるのかについて明らかにすることを目的に,登場人物(キャラクター)と俳優(パフォーマー)との区別に着目して舞台上の相互行為を分析しました。
 検討したのは,通し稽古の2つの事例です。事例1では,セリフを言い間違えるというトラブルに対し,観客にとって登場人物として聞こえるセリフを俳優は即興で演じていました。事例2では,セリフが重複するというトラブルに対し,俳優はトラブルのある箇所を含むひとまとまりをやり直していました。
 上記の2つの事例から,演劇におけるトラブルへの対応において,俳優と観客の間には情報状態(Goffman 1974)の非対称性が前提としてあるため,観客の理解が指向されるということが明らかになりました。
 報告時の質疑応答やその後に,本番と本番同様の通し稽古はどのように違うのかといったご質問,また,あらかじめ定められた発話と日常の発話の違いを2つの事例から提示できるのではないか,「キャラクター」と「パフォーマー」だけの区別ではなく個人誌の主体を指示する「パーソン」(Goffman 1974)も分析に入れた方が良いのではないか,などのご指摘をいただきました。さらに,本報告の事例のさらなる分析の可能性として,「劇フレイムを維持する」という要請(事例1)と「滞りなく劇を進行させていく」という要請(事例2)があり,後者の方に優先性があるのではないかというご意見もいただきました。
 今後は,いただいたコメントをもとに,演劇という重層性をおびた相互行為について,より丹念にデータを分析していきたいと思います。そのことは,ゴフマンとEMCAの接続可能性を模索することにもつながってくると考えています。
 あらためまして,この度は貴重な機会をいただいたことに感謝もうしあげます。本当にありがとうございました。

企画セッション「成員カテゴリー化装置を再考する」

第二部では,企画セッション「成員カテゴリー化装置を再考する」を開催しました.ご登壇いただいた,小宮友根会員,是永論会員,西阪仰会員よりご感想をいただいておりますので,下記に掲載いたします.

小宮友根 会員

 当日の議論をとおして、MCDが「何ではないか」については一定の見解の一致を得ることができたように感じています。他方、MCDが「何であるか」については、少なくとも小宮報告と西阪報告のあいだで、特徴づけの違いがありました。私が「人のカテゴリーをめぐる知識の組織」と表現したものに相当する部分が、西阪報告では「possible Xを産出するメカニズム」と表現されていたと理解しています。西阪報告の表現のほうがより明確で、方法論の表現として洗練されていることは明白ですが、他方でそうした表現でMCDを特徴づけることが適切かについては私はまだ若干の疑問を持っているので、この場をお借りして簡単にその点を述べておきます。
 「possible」という表現がサックスの(あるいはより広くEMCAの)著作の中で用いられるとき、そこにはいくつかの異なった意味があるように思います。ここではそれらを網羅的に整理することはしませんが、少なくとも、次の二つは区別したいところです。
  1. ひとつは、産出された文なり発話なりが、特定のプラクティスのもとで産出されているがゆえに、現実の状況とは独立にXとして認識可能であるという意味での「possible X」です。「赤ちゃんが泣いたの」が「記述」であるという議論は(議論があるかもしれませんが)私はこの趣旨だと理解しています。より明確には、シェグロフが"Turn Organization"の注8でおこなっている議論がこのタイプです。
  2. もうひとつはより限定的な、ある活動Xについて、「スロット」と「アイテム」という概念のもとで、「possible X であるアイテムが特定のスロットで生じることでXとして認識可能になる」という議論をするときの「possible X」です。ここでは「possible」は「認識可能」であることとはむしろ区別された、アイテムの性質を表現しています。「赤ちゃんが泣いたの」が「物語の開始」であるという議論はこのタイプで、講義録の「possible invitation」の議論も同様です。当日西阪さんが「誤解を恐れずにいえば」と前置きされた上で「意味論」と「語用論」を区別してMCDの働きを前者に割り振っていたことも、こちらの議論の系かもしれません。
 さて、MCDについて、(1)のような意味での「possible X の産出メカニズム」であると特徴づけることはあきらかに不十分に思えます。ある文なり発話なりをXと認識可能にさせるプラクティスは、MCD以外にもたくさんあるからです。
 では(2)のような意味での「possible X の産出メカニズム」であると特徴づけることはどうでしょうか。この場合、アイテムのpossible Xとしての性質を規定するものがMCD以外にはないのかという上と同様の問題に加えて、MCDがおこなっているのが本当にアイテムにpossible Xとしての性質を与えることだけなのかという問題も考える必要があるでしょう。後者について、たとえば「自動車の話をしていたんだ」というアイテムが「誘い」として認識可能になるにあたっては、「10代の少年が同じ10代の少年に言う」という要素が決定的に重要で、MCDはそこで話し手/聞き手を「10代の少年」とカテゴリー化する機能を果たしているはずです。この「話し手/聞き手を何者かとして扱う」ことは「アイテムにpossible Xとしての性質を与える」こととは異なったことがらではないでしょうか。
 以上簡単ですが、MCDを「possible Xの産出メカニズム」と特徴づける場合、(1)の意味では限定が弱すぎ、(2)の意味では逆に強すぎるような気がしています。ともあれ、発話なり文なりが、いかなるプラクティスのもとで特定の活動として認識可能になっているかをあきらかにするという、EMCAの根本的な課題にMCDが深くかかわっているということを再認識できたことについて、企画セッションにお招きくださった世話人のみなさま、活発なディスカッションをしてくださった他の登壇者とフロアのみなさまにあらためてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

是永 論 会員
「MCAの課題としての Glance-intelligible」

 今回の企画セッションでの発表機会をいただいたことに感謝いたします。
 当日の報告としては、近年のMCAの動向について紹介させていただくとともに、そこで分析対象の持つ文脈の問題が指摘されていることを足がかりに、独自の課題として、「一目でわかる(Glance intelligible)」対象について考えるため、自分が研究している短歌制作者のワークについて披露させていただきました。その後でMCAの全般の課題についても指摘させていただきましたが、前半とのつながりの部分が弱かったようにも思われます。趣旨としては、MCAという枠組みの問題はあるにせよ、分析視点としてMCDが持つ可能性を、いろいろな対象について皆様にも展開していただきたいということでした。合わせて、Jayyusiの考察によって整理されている論点も、そうした研究の展開の中で、もっと取り上げられてもよいのではないか、ということも背景にありました。が、私の方での整理が不足していた分、その辺りまでは伝わらなかったようにも思います。
 ディスカッションは、ややフォローするので精一杯でしたが、最後の方で串田秀也先生が提議された、性別カテゴリーがレリバントになることの問題は、やはりMCAの課題としても重要であると思われました。自分が研究対象としていた広告の分野でも、人物が指示される場合、(ヘテロとしての)性別カテゴリーが優先的に参照されることが通常である一方で、それがネット炎上のような形で社会的な批判の対象になることがあります。これに対して、これまで自分としては、広告にはまさに「一目で分かる」タスクとしての必要上から、性別を指示するワークがあり、そのようなタスクとしての優先性を、社会一般における特定の性別の優先性(への異議)と一緒に考えるのは難しいのではないか、と考えてきました。しかし今回の議論から、異議や違和感に目を向けることの重要性があらためて思い起こされる一方で、最近の広告でも性別カテゴリーの取り扱い方がかなり大きく変化しているように、カテゴリーが適用される文脈もまた、それぞれが多様に展開していると想像されるに、一つの答えとしては、やはりより多くの研究事例に即して考えていくことではないかとも思われました。
 そうした意味でも、MCDに関わる概念と事例の検証が、今後ともさまざまな分野と文脈で展開することを個人的には期待しております。

西阪 仰 会員

 今回は,Membership Categorization Device(MCD)が最も有効な分析手段であるためにはどのような制限が必要かということについて,いくつか問題提起をした.そのための補助線として,サックスの1966年の春の講義と,1972年の2つの論文を参照し,そこでは,特定の発言がpossible Xとして構成されるための仕掛け(手続き)の一部として,MCDの解明がなされていたことに注目した.ここから,
  1. カテゴリー化はしばしば,話し手と聞き手のカテゴリー化にほかならならず,人物指示,人物の記述などとは基本的に区別されるべきであること,
  2. 電話の「かけ手」「受け手」などをカテゴリーと呼び,「最初の話題」を持ち出す権利が「かけ手」というカテゴリーと結びついていると主張することは,(暫定的な整理に役立つとしても)行為連鎖の組織の詳細をむしろ覆い隠すことになりかねないこと,
  3. MCDをめぐる分析的課題として,様々なpossible Xの産出手続きの一部として,いままで記述されたことのないMCDを記述すること,または,MCDのいままで記述されていない特徴を記述することがありうること,
などを論じた.
 いくつか貴重なご質問をいただいたが,うまく答えられていなかったように思う.1つは,possible Xの「possible」の意味についてだが,これは,大まかに,「本人たちにとって[Xで]あってよい」というような広い意味で捉えておいてよいだろう.例えば,語用論的な「取り消し可能な含意」が,「ある発話はまずはデフォルトとしてそのような含意を持つが,その含意は,別の発話を接続することで取り消し可能である」というものであるならば,上の「possible」には,「まずはデフォルトとして」という含意はない.また,「取り消し可能な含意」が意味論的意味と区別された,もう1つの「意味の水準」を意味するのであれば,「possible」は,「必然的なもの」との対比で用いられる特徴付けではない.一方,このような言い方で適切な返答になっているか,あまり自信はない.
 もう1つは,possible Xの産出手続きの解明以外にも,MCDとの付き合い方があるのではないかというものだった.まずは,そのとおりだし,いったん記述されたMCDは多様な分析的目的に利用可能だろう.ただし,そこで用いられているのが,本当にMCDと呼ぶべきものなのか,またそれが相互行為組織の詳細な解明をむしろ妨げていないかは,個別に検討されるべきだろう.さらに,その研究で参照されているのが,MCDではなかったとしても,それが有効な分析に役立っているのであれば,それはそれでよいはずだ.ただし,その場合,そこで用いられている分析的道具立てがきちんと特徴付けられているか(サックスがMCDと呼んだものとどこが異なっているのか),やはり個別に吟味されるべきである.
 ともあれ,私自身もいろいろ曖昧な点が残っている.多くのことを考える機会を与えていただいたことに,たいへん感謝している.

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