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エスノメソドロジー・会話分析研究会: 2016年度春の例会・短信

 2017年3月26日(日)に成城大学にて開催された2016年度秋の研究例会は,延べ55名の方にご参加いただき,第一部の自由報告,第二部のHarvey Sacks, Lectures on Conversation 発刊25周年特別企画シンポジウム,共に盛況のうちに終えることが出来ました.ご報告いただいたみなさま,および特別企画にご登壇いただいたみなさまにお寄せいただいたご感想をこちらにまとめました.ハーヴィ・サックス講義録発刊25周年記念大会にふさわしく,経験的研究に見られる研究動向を押さえながら,今後のEMCA研究の展望を見据え議論を深める大変よい機会となりました.ご参加いただいたすべての方々にあらためて御礼申し上げます.(大会担当世話人:黒嶋智美・森一平)

内容の詳細は→活動の記録(2016年度)をご覧ください。

短信









自由報告

坂井愛理(東京大学大学院)
訪問マッサージにおけるアカウントの実践:「情報の釣り出し装置」ならびに「訂正誘引装置」の使用に注目して

 この度は貴重な報告機会をいただき、大変ありがとうございました。また、当日は雨だったにも関わらず、朝早くからご参加下さったみなさまに感謝申し上げます。
 報告では、訪問マッサージのやりとりにおいて、患者が自らの身体にアカウントを与える機会がどのように用意されるのかについて考察いたしました。
 先行研究では、医療面接の場面において、医師の質問によって患者のアカウントが引き出されるやり方について検討されてきました(たとえば、Boyd and Heritage 2006など)。しかしながら本報告は、質問以外の方法によって、患者のアカウントの場所が用意されるやり方について検討いたしました
 情報の釣り出し装置(Pomerantz 1980)とは、質問文を用いず平叙文であるにも関わらず、聞き手から情報を釣り出すことができる、情報探索のやり方です。ポメランツによると、この装置は、ある事柄をたまたま知るに至った者(Type 2 knowable)が、その事柄を当然知る権利と義務を持つ者(Type 1 knowable)に対してその事柄についての発話を宛てることによって、自発的なアカウントが釣り出されるという仕組みのもとに働いています。報告では、訪問マッサージ中のやりとりにおいて、施術者がこの装置をどのように使用しているのかについて検討いたしました。
 分析では、まず、情報の釣り出し装置の使用の典型例を紹介いたしました。それは、施術者がマッサージ中に触りながら気が付いたことを患者に発話し、その後に、患者から、患部についてのアカウントが行われるというものです。続いて、施術者により同じくこの装置が使用されたものの、その使用がキャンセルされ、「訂正誘引装置(Sacks 1992)」の使用に切り替えられている事例について検討いたしました。ここから、マッサージ中に施術者が触りながら気が付いたことについて患者に発話することが、情報の釣り出し装置として働く可能性について議論いたしました。
 質疑応答においては、本報告で行われているものは、ポメランツが1980年の論文中で考察した情報の釣り出し装置とは異なり、そもそもプロブレムにアカウントを与える活動と言ったほうが良いではないかとご指摘をいただきました。今後の研究を通して、訪問マッサージの場で行われていることにより即した特徴づけの検討を続けてまいりたいと考えております。

團康晃(公益財団法人たばこ総合研究センター)
会話の組織と嗜好品摂取の関係についての研究

 本報告は公益財団法人たばこ総合研究センターの自主研究として実施した調査をもとに,「会話の組織と嗜好品摂取の関係についての研究」というタイトルで発表をさせていただきました.発表をお聞きいただいた方々、貴重なコメントをいただいた方々に厚く御礼申し上げます。
 本報告では、ゴフマンの「関与配分の規則」の議論を下敷きに、お茶やコーヒー、たばこといった嗜好品の摂取をめぐる活動と、会話活動との関係に注目し、分析を行いました。
 ゴフマンは『集まり構造』の中の「関与配分の規則」の議論において、嗜好品摂取の事例をしばしば紹介しています。この事例を、具体的なビデオデータを用いて、相互行為として分析することが本報告の目的でした。
 分析を通して明らかになったことは、一つには嗜好品の摂取をめぐる諸活動と会話の順番交代とが深くかかわっているという点でした。ある事例では、話し手は、聞き手であり次に自己紹介を促そうとしている者が、コーヒーを飲み終わることを観ながら、自己紹介の促しを行い、かつ話し手は自らのターンが終わりに近づくことを、嗜好品へと手を伸ばし、口に運ぶことで示していました。このような事例を、ゴフマンの議論に即して考えるとき、嗜好品摂取をめぐる諸活動は、支配的関与に並行する従属的関与であるというより、支配的関与となっている会話活動の一部、資源となっていたといえます。
 さらに会話の中の嗜好品摂取をめぐる活動を見ていくと、物語の語りのクライマックスで、順番交代とは別の水準で語りの資源となる事例がありました。話し手は、嗜好品を口元に寄せながら物語を語り、その物語のクライマックスで、自らのやるせなさを表現する発話と共に、手に持っていたコップを机に強く、おきました。それは物語を語る中で、語り手のやるせなさという感情の高まりを視覚化するための演出的方法としてなされていたといえます。このような事例も、ゴフマンの議論とは異なる、嗜好品摂取をめぐる活動と会話活動の関係の在り方を示してくれるものでした。
 本発表に対しては、分析についてのコメント、あるいは「嗜好品」の種類と活動との関係性についてのコメントなどいただきました。本報告は、嗜好品摂取をめぐる活動に注目した相互行為分析の一つの方針の在り方とその分析の一部を示すものでした。今後は、いただいたコメントを踏まえ、より明確な現象に注目し、分析を進めていきたいと思います。あらためてありがとうございました。

畑和樹(Newcastle University[現東京都市大学])
一般会話における終助詞butとtrailoffの会話構造

 今回2016年度春季研究例会にて、「相互行為内での終助詞but」に関して発表させていただきました。発表時間内外を問わず、多くの貴重な意見をいただきました。厚く御礼申し上げます。
 本発表は、trailoffという現象の再考を試ました。これまでtrailoff、特に等位接続詞が順番最後尾に置かれるケースは(対話的)言語学分野にて広く研究されてきました。しかし、参加者の相互行為に注目してみた際、これまでに言及・説明されていないtrailoffの特性はまだ多くあるはずです。今回の発表では、たとえtrailoffが統語的に不明瞭な資源にて順番交替を示唆しうるとしても、相互行為内においては「参加者が何に志向しているか」という点に注目し行為の連鎖構造に言及しました。個人的に興味深い点として、Schegloff (1996)にも見て取れるようにtrailoffは元々会話分析内にて提唱された現象であると認識していますが、近年の研究(Mulder & Thompson, 2008; Walker, 2012)ではtrailoff (conjunctional)の相互行為内特性にはあまり注目されていないことが見受けられます。
 確かに、2017年までの数々の研究により、多くの会話現象、その手続きが明らかになっています。しかし、新たな発見だけではなく、まだまだ再考する余地のある現象もあるはずで、trailoffはその一つであると(個人的に)実感しております。特に、発表後に頂いたコメント「trailoffにおけるTCUの完了可能性」と「非言語的資源」については、今後の研究にて考察を重ねていく所存です。
 また、今回の発表では用語の日本語呼称について非常に苦労しました。お聞き苦しい点もあったかと存じます。この点も発表後に貴重なご意見をいただきました。誠にありがとうございます。最後に、今回発表させていただく機会を作っていただいたことに対し、運営の皆様方とご参加していただいた方への謝辞にて短信文を締めくくらせていただきます。

岡田光弘(国際基督教大学)
観察社会学にとって、「概念分析」とはいかなるものなのか?:P.Winchを正確に「誤読する」試み?

 本報告において、二つのことが明らかにできていたら望外の喜びである。
  1. 新資料に基づいたEM理解: EMという営みの肝はAccountability、さらに、その肝は、可視性や目撃可能性(Witness・ability)である。
  2. EMの都合に合わせて誤読されたWinch経由のWittgenstein理解: Winchenstein派のEM がありえる。
 この二つの点が収斂することで可能になる積極的な主張は、A)EMの根幹であるAccountabilityは、Wittgenstein 理解の「可視性・解」と一致する。付随的に主張されるのは、B)「概念分析の社会学」をEMと等値だとすることは過ちである、というものである。
 以下、紙幅の許す限りにおいて、論点を確認しておく。
  1. 報告者は『エスノメソドロジー――人びとの方法に学ぶ』において「秩序があるとは、組織され、可視性があること」という主張を行なった。この場合の「可視性」とは、Observable(観察可能), Visible(可視的), Witnessable(目撃可能)といった語を指している。本報告で明らかにされたことは、社会秩序や構造が、利用可能なように、組織、アレンジ、デザインされたものであり「目撃可能であるということは、目にしたことが利用できる(Witness・able)ということ」だという論点である。
     有名な「観察可能(Observable)で報告可能、すなわち、説明可能」というEM理解の胆となる部分は、後に、Garfinkel自身によって以下のように定式化し直される。EMが対象としている「構造は、すでに、説明可能なものである。いうならば、構造は、すでに、利用可能なものなのである。それは、たんに目撃可能(Witnessable)だというだけでない。そこには、目にしたことが利用可能(Witness・able)になっているという形で、その目撃可能性(Witnessability)には、成員がそれ目にする手助けをする、状況に埋め込まれたやり方が含まれている。」(Garfinkel 1975, Day 3, p.9)
  2. WittgensteinとWinchは、「『規則』という語の用法は、『同じ』という語の用法と織り合わされている」という。Garfinkelは、独自に、この「同じ」という秩序が、規範の内面化や共同体によるサンクションによってではなく、「可視性」によって担保されているという事を発見した。彼らは、Winchには「可視性」への感受性が欠けていると指摘している。EMは、概念が作動することによって得られる「可視性」(EMで言うところのAccountability) が、行為の接続を可能にしていることに注目することで、Winchを徹底化し(Wittgenstein理解の「可視性・解」)、歩みを進めることができる。
 奇しくも、Garfinkelが、Parsonsを乗り越えたEM内在的な展開と、Wittgenstein 理解の「可視性・解」は収斂する。報告者は、その営みに「観察社会学」という名前を与えたい。

中川敦(宇都宮大学)
遠距離介護のコミュニケーションにおける高齢者の本人参加:高齢者への次話者選択時の離れて暮らす子供の自己選択順番取得

 報告では、遠距離介護に携わる離れて暮らす子供、ケアマネジャー、高齢者が対面で取り交わすコミュニケーション場面の動画データから、特に、ケアマネジャーが高齢者を次話者として選択しているにもかかわらず、高齢者ではなく、離れて暮らす子供が自己選択によって発話順番の取得を行うという現象の分析を行いました。本人の視点の重視が高齢者福祉の現場で主張される中で、このような現象が参与者にとって、どのような相互行為的な課題を、どのような方法によって解いた結果生じているのか、ということを解明することに、本報告の目的がありました。
 当日フロアからいただいたコメントとして、以下などがありました。まず、本報告が注目しているプラクティスは日常場面のやり取りでも生じる可能性があるが、そこでのプラクティスの使用と、この場面においてこのプラクティスが用いられていることに有意味な差があるのかという論点です。本報告では十分に扱えませんでしたが、当該現象のコレクションの中には、高齢者自身の認知能力が低いことが前提として行われている、離れて暮らす家族による自己選択のケースが存在しました。こうしたケースと、本報告が分析したような現象とを比較考察することを通じて、いただいたコメントにこたえていきたいと思います。
 また当日の私の報告の中で、離れて暮らす子供による自己選択順番取得によってなされた発話が、ケアマネジャーよる先行発話を連鎖的に削除しているのという私の分析について、疑義をいただきました。ご指摘の通りで、私による「動機づけられた観察」によって、分析が行き過ぎてしまってしたと思います。ありがとうございました。
 当日は時間配分がうまくいかず、尻切れの発表になってしまったにもかかわらず、多くの的確なコメントをいただけて大変勉強になりました。今後の研究にしっかりと反映していきたいと思います。

書評セッション

第二部では,Harvey Sacks, Lectures on Conversation 発刊25周年特別企画シンポジウムといたしまして,「実践のなかの経験と知識――研究動向と展望」というタイトルで,特別企画シンポジウムを開催しました.ご登壇いただいた,早野薫会員,西阪仰会員,中村和生会員のみなさまよりご感想をいただいておりますので,下記に掲載いたします.

早野薫 会員

 John Heritage先生に師事し、登壇者の中では唯一「認識性」というタームを用いて研究に取り組んできた者として、大きなプレッシャーを感じながら発表させて頂きました。私は、ヘリティッジがはじめて「認識性(epistemics)」というタームを用いた2002年の論文を読んで以来、認識性という観点に立つことによって記述できる現象を見出すことに取り憑かれてきました。しかしながら、そのようなアプローチには大きなリスクがあるということにも、早い時点で気づかされました。それは、分析者は、タームを得た途端、ひとつひとつの断片で起きていることの細部に目を向けることを怠りがちだというリスクです。今回の発表では、このことに自覚的になる必要性を認めた上で、2つの視点から議論させて頂きました。まず、連鎖環境をふたつ(評価発話連鎖、質問発話連鎖)取り上げ、これらの環境においては認識性が「ときどき」ではなく、「しばしば」問題になるということ、そしてそれは、「たまたま」問題になることがあるというわけではなく、評価をするということ、質問をするということの性質に内在的なものであることを論じました。また、認識的地位(epistemic status)という分析装置について、発話を理解する上で「認識的地位」を参照する必要があるかどうか、という問題以前に、「誰が何を、誰よりもよく知っているのか」を決定する要因はひとつではなく、相互行為に先立って前提と考えられるものではないということを指摘しました。
 しかしながら、私にとって、今回のシンポジウムの意義は私自身の発表以外のところにありました。西阪先生、中村先生、またフロアの皆さまからのコメントにより、「認識性」という語が一括りにすることを許容してきた多種多様な現象を、多種多様な現象として分析することの重要さに改めて気づかされました。ヘリティッジは、一連の批判論文による議論は「学問を前進させることのない」、非建設的なものであると一蹴しましたが、今回のEMCA研究大会シンポジウムで行われた議論は、学問を前進させる、非常に建設的なものだと感じました。私は、今後も知識や経験に対する参加者たちの志向性について研究していくことになるのだろうと思いますが、今回のシンポジウムで得た知見を糧に、よりデータに忠実な分析を目指していきたいと考えています。素晴らしい機会を用意してくださった企画者の皆さま、示唆的なコメントをくださったフロアの皆さま、登壇者の皆さまに心より感謝申し上げます。

西阪 仰 会員
「相互行為のなかの知識」

 今回の企画は,一方で,サックスの『講義』出版の周年を記念するものであると同時に,他方で,最近の,会話組織における「知識状態の格差」の取り扱いに関する論争するものであったと理解している.後者の論争は,いろいろな意味でホットな話題でありうるし,「知識状態格差」の重要性を主張しているヘリテッジが,サックスの『講義』にしばしば言及しているわけだから,この2つの論点を結びつけることには,確かに理由がある.が,サックスの『講義』のほうに重心を移してみれば,企画者たち自身がその導入で的確に示していたように,そこでの知識の扱いは,じつに多岐にわたる.ヘリテッジの2015年の2つの論文が論じる,行為形成や連鎖組織における知識状態格差の問題が重要でないわけではない.しかし,今回の私の報告では,サックスの議論の豊かさを示すために,論争のほうにはあえて踏み込むことをせず,サックスが論じている多様な知識問題が,まさにその行為形成や連鎖組織にどうかかわりうるかを,検討してみた.
 アイデンティ・カテゴリーと結びついた知識は,「Xをしていた」という表現配列が特定の(可能な)行為を構成するのにどう貢献するかという問題,誰に何を語ることができる/語るべきかという会話の基本(「語るに値すること」)にかかわる知識の問題,語るに値することをいかに知ったかが,どう語りの(さらには行為の)構成に組み込まれるかという,いわば日常的な「認識論」の問題,人物指示における,相手による認識の可能性の想定の問題.さらに,自己訂正の優先性の問題.これらの問題に対する,いわば実践的な「最適解」として,1つ発話の構成があり,2つの発話の連鎖がありうることを,考えてみた.
 相互行為における「知識」は決定的に重要な問題群を構成する.私自身,最初のEMCAの(異文化性に関する)英語論文も,知識の配分に関するものだったし(ヘリテッジからこの論文を勧められて読んだと,ある人に聞いたときはうれしかった),最近も,原発事故後,住民たちの不安の語りがどう知識問題と結びついているかを考えている(内部被ばく検査をめぐる住民と医師のやりとりに関する論考が,今年Discourse & Society誌に掲載される予定である).相互行為と知識の多様な関係を,絡み合った糸を解すように丹念に検討する作業が,様々な切磋琢磨のなかで今後も続けられればと願っている.

中村和生 会員

 今回、epistemisをめぐる論争について、その大筋を押さえた上で自らが提唱するポスト分析的EMの立場から何がしかの議論を展開するという課題の下で発表をすることになっていたにもかかわらず、著しい準備不足に陥り、論争の整理すらままならない状態での発表となってしまったことを改めてお詫び致します。現在ではradical ethnomethodologyのサイトにある全ての論文に目を通して参加された方々には、ただただ申し訳なく思っています。その後、Lindwallが著者に含まれる2本の論文だけしか通読できていませんが、この場をお借りして、本来報告すべきであったことに触れさせて下さい。
 Lynchらによる主要な批判はepistemic statusと呼ばれるものが相互行為において常にレリバントであるというHeritageの主張に向けられていました。(そして、早野先生の報告における例証はこの点を乗り越えるものでした。)いっぽう、Lindwallらの批判の一つは、レリバンスがあると言える場合であったとしても、隣接対の第一部分をシークエンスから切り離し、そこでの行為形成の要因としてepistemic statusを持ち出している、ということに対するものでした。まずは、この批判も取り上げ、その是非をめぐる議論を投げかけるべきでした。(ただし、西阪先生の報告における例証をとおした主張の中には、この点に関わるものがありました。)
 さて、ポスト分析的EMの関心は、CAの分析的卓越性をふまえつつ、CA的な着眼点(例えば、シークェンスの組織化)とは異なる実践次元を描き出すことにあります。その方向性から、以下のようなことを考えることができます。epistemicsをEMの系譜に位置づけてみると、山崎先生が述べられたように、シュッツ以来の「知識の社会的配分」の議論に遡ることができます。(「経験への権利」については割愛します。)そして、この配分が端的に見えるのは、まずは成員カテゴリー化装置内のカテゴリー間における何らかの非対称性においてであると私は考えます。(岡田先生が強調されていたrecipient designをこの流れで捉えることもできます。)この点を、「異文化性の社会的達成」(西阪 1997)における「日本語の所有権」の議論など、多少なりとも制度・組織的な制約のある実践を扱った既存の経験的研究を使って整理できるはずです。つづいて、「会話の参与者」による「日常会話」であっても、その都度の発話から成員カテゴリーと、それが属す集合が次々と立ち上がるような場合(例えば、「「助け舟」と「お節介」」(串田 1999))に着目できます。そして、成員カテゴリー化装置がもたらす知識の非対称性のような論理的前提は行為との適合性以上は要請しないのだから、それだけではその都度の発話の詳細を決めないものです。こうした論理的前提、ならびにその立ち上げ作業などに注目することで、epistemicsという名の下にHeritageが対峙していた現象やその説明のあり方を位置づけることができるのではないでしょうか。そうなれば、この論争は決して党派的ではなく、学問的に生産的なものであることをさらに示すことができるように思われます。
 本来、こうした議論を投げかけるべきでしたが、ほとんど全くできなかったことを改めてお詫びし、反省する次第であります。申し訳ありませんでした。

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